2008年7月17日 (木)

正木山の磐座

                          正木山の磐座
                         ~総社のイワクラ(磐座)2~
                              

 本年1月2日、天気は晴れ、昼から正木山(381メートル)に登った。昨年末、偶然に知ることとなった金子(かなご)部落からの登山コースにした。
 正木山は、わが家の二階や毎日の通勤時、総社駅のプラットホームから自然と目に入ってくる。私の心の中では、最近,“神体山”としての重みが増してきている。
 マイカーを持たない身なので、自転車で、総社大橋を渡って、秦方面に向かい、山崎部落の細い坂道を上がって、金子大池の土手に出た。そこは、急に視界が開けて別天地にでも来たようであった。池の周辺は懐かしい古き良き農村風景がしっかり残っていた。穏やかな水面に、水鳥が多数戯れている金子大池の背後に、美しい姿の正木山がゆったりと聳え立って見える。これから、その頂に行くのだと思うと、心が弾んだ。
 坂を上がったばかりの土手の一角には、『式内 麻佐岐神社遙拝』と刻んだ年代を感じさせる大きな石碑がある。また、並んだ位置に金毘羅宮の堂々とした石塔がある。振り返ると、福山や伊与部山が一望できるのも嬉しい。
 金子部落内を抜け、登山口に自転車を置いて歩き出した。道は幅2メートル近くあり、山道としては広く、舗装はされてはいないが、よく管理されている印象であった。しばらく登った右手の谷に墓地があり、そこに、まだ新しい祠があった。降りて近づいてみると『大山神社』の名があった。高さ1メートルほどの三角形の石が祀られていた。辺津の宮ともみなせないことはない。また近くに神が降臨する木(おがたまのき)が植えられていた。
 道に帰って、1時間近く登った所に、『中津宮(大祓谷)』と記した小さな立て板がある。そこは、ちょうどウエルサンピア岡山(厚生年金休暇センター)方面や福谷方面からの道と交わった場所である。特に,岩や建物跡は見られない。昨年11月末に、ウエルサンピア岡山方面から頂上を目指した時には、笹に覆われていて気づかず、素通りして金子部落に降りてしまったのだ。今回は、きれいに笹が刈り取られており、頂へと、ここから急に向きを変えて急斜面となるごく細い山道がはっきりと見て取れた。そこから約30分以上,曲がりくねった歩きにくい道を上がっていった。わずかばかりであったが、道の傍らには残雪があちこちにあった。
 頂上に近づいて来た事を思わせるように、次第に道幅も広がり、一種の神域の境界ともいえる数十センチメートル大の石が両脇に置かれているところがあった。しばらくすると、相当に乱れて来てはいるが石畳状とみなしてもよいような道が百メートルほど続いて、石の鳥居が現れた。その先は平地となり、石垣のうえに小さな拝殿が立っていた。本殿は存在しない。目的の磐座は、拝殿に隠れて見えない。
 御神体である古さびた磐座は、拝殿真裏の石垣の上に造られた玉垣の中で、注連縄を巻かれて鎮座していた。それほど巨大なものではなく、人の背丈ほどである。祭壇状の岩が備わっている。玉垣の中は、いかにも、ずっと昔から祭祀が行われてきた様子を思わせるたたずまいである。樹木が幾本かあり、土瓶が地面に埋められていたり、小さな石碑もあったりする。
 次第に、厳かな雰囲気を感じてくるようになった。ここは、まぎれもなく聖地の一つなのだ。延喜式(延長5年、927年)の神名帳の巻に載っている『麻佐岐神社』である。
備中国の式内社18座のひとつであり、明治40年5月22日に旧秦村の村社となった。ここにも“おがたまのき”が植えられていた。拝殿に説明板があり、祭神は大国主神(岡山県神社誌では大國魂神)で、祭日は5月11日(岡山県神社誌には例祭7月12日)とあった。
 鳥居の方を振り返ると、総社平野が一望出来、福山とそれに連なる山々も鮮やかに眺められる。石畳の道、鳥居、拝殿と連なる線は東向きである。太陽が昇ってくる方向に向いている。古代の人々は、ここで、どのような祈りを捧げたことであろうか。
 拝殿に、今年になって新調された記帳用のノートがつり下がっていた。記帳するため開いてみると私の順番は31番目であった。(なお、3月2日に参拝した時は、73番目であった)記帳しているのは皆、秦地区の人で、10数家族が元日と2日の午前中に参拝に来ていたことになる。
 しばらくしてると、数人のある一家族が来られた。大野の人で、糸島玉夫(83歳)さんといわれる一家であった。大野の方からは、車で頂上まで来ることが出来るとのことである。玉夫さんから拝殿に置いてあった一升瓶に入った御神酒を勧められた。また、正木山が秦地区の所有になっていることや、数十年前に拝殿の屋根を藁から葺き替えた話、年末の参拝道の手入れ、頂から南面のすぐ下に別の磐座らしきものがあることなど教えてもらった。
 ところで、昨年12月8日(土)、予め約束をして宮司の小橋学氏のお宅を訪問した。
ウエルサンピア岡山のプールの奥にご自宅があるとのことなので出かけた。まず目に入って来たのが、『古代吉備乃国発祥乃地』と書いた数メートルはあろうかという手作りらしい大きな塔であり、驚かされた。その周辺は歌碑や磐座等が配置された広い庭となっていた。あたり一面に聖域の雰囲気がただよっていた。しかし、ご自宅は洋風のモダンな建物であった。
 先代の宮司小橋光一氏は、学氏の父親にあたられ、十二代目であったとのことであるが、数年前に亡くなられていた。秦地区及び周辺の多くの神社の宮司を勤められて、それぞれの整備と祭祀行事等に尽力されて、地元住民から大変尊敬されていた方のようである。また、磐座を熱心に研究されておられたようである。生前にお会いできなかったのが残念である。
 光一氏が蒐集された磐座等の史料の展示室があるとのことで、拝見させていただいた。学氏は、後を継いでからまだ日が浅く、いまだ、この史料の整理に当たっておられないとのことで、内容の説明は十分にはしかねるとのことだった。ただ、頂上の磐座を取り囲んだストーンサークル的な石の配列が確認されている図面等を拝見した。また、いつ頃のものなのか、“まさきやま”についての古い和歌集も見せて頂いたが、草書体のため、判読できないのが残念であった。
 史料展示室には、書籍も幾冊かあったが、その一つに、前回紹介させて頂いた佐藤光範氏の磐座の本もあった。二人の交流があったことが推測できる。
 少し長くなるが、その本の中から、『秦』と『正木山』と『磐座』に関連した部分を引用させていただく。
 「『マサキ』とは何か?○○キの『キ』は祭祀の場所を示す『キ』です。『マサ』は麓の秦部落を意味しています。京都に映画村で有名な太秦があります。ウズマサと読みます。曾て秦氏の居住地としていた所です。秦の事を『マサ』ともいっていた証拠がここに残っています。(まだその意味は不明です)ハタ族(マサ族)は道教を信仰していたから、道教の秦の始皇帝に因んで『秦』の字を使ったのです。京都の秦族も伏見の磐座を祭祀していました。ここ総社でも正木山の東の登山口にいた秦族は、裏山の『磐座』を祭祀していたのです。むしろここの山に立派な『磐座』があったから、麓に秦族が居を構えたというのが正解でしょう。
 更に面白いことには、ここ総社の秦族は高梁川側で白鳳時代の『秦廃寺』を持ち、岡山市の旭川側の幡多族は操山西端に正木山を持ち川沿いに、白鳳時代の『幡多廃寺』を持っている事です。そして、このハタ氏族が、二グループの真中の距離にある『磐座』岡山市高松の龍王山に、出身地の京都伏見の自分達の守神『稲荷様』を招聘している事です」
 次回は、一回目に、写真で見て頂いている『石畳神社の磐座』を取り上げたい。これも、秦族が関わるものである。『秦氏』についての、詳しい解説とともに、秦地区の各部落にある氏神や、秦廃寺、古墳、三角縁神獣鏡、銅の鉱山等についても、関連させながら触れてみたい。
 最後に、このたび正木山に行くつど、心が大変に痛んだことがあったことをお伝えしておきたい。それは、とんでもないほどの松枯れの状況である。松枯れでは、里の私どもの家の近辺においても、近年、大切な庭の松を枯らして残念がっておられる方が多い。
 しかし、正木山の松枯れの、あまりの惨状に声も出なかった。立木のまま、切り倒されたまま、また自然に倒れた状態の、赤くなってしまった沢山の松が放置されている姿か痛々しい。私たち人間の健康な生活の維持にとって、身近かな山々が、切っても切れない大切な関係をもっているのに、どちらかといえば顧みられなくなっていることへの悲痛な叫びとも思いたい。みんな、もっと山に入って、自然と一体になった人の本来の生活といったものを考えてみようではありませんか。磐座へ関心を寄せることが、その、ひとつの入り口になるのではないだろうか。

                                終わり
                               
                                        平成20年2月18日脱稿

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2007年5月 1日 (火)

巨石巡礼記(1-3)~奈良県山添村~

            巨石巡礼記(1-3)
                                ~奈良県山添村~

   山添村の巨石巡礼記の最終回であるが、それに入る前に、4月21~22日のイワクラ学会全国大会2007~イワクラサミットin豊田~に、行ってきたことを報告しておきたい。実行委員長の中根洋治氏を中心とした関係者の、心のこもった準備が伺える内容であった。初日には佐藤光範氏のまとまった話が聞けたのも嬉しかった。二日目の現地視察は3台のマイクロバスに分乗しての豊田市内の巨石視察であったが、十分に堪能した。これについては、いずれ巨石巡礼記(2)としてまとめてみたい。“足助”という町を初めて知ったのも、大きな収穫であった。また、『続巨石信仰』が入手出来たのもよかった。それでは、以下、山添村の巨石巡礼記の最終回に入っていきたい。

 目的を達したので、森林科学館まで帰って、中にあった、喫茶コーナーで冷たい飲み物を飲みながら、バスの出発まで待つことにしたが、この間、佐藤氏に、著書のこと等様々なお尋ねをした。そして、長い間、毎月一回「星と太陽の会」という名で、県内を中心に磐座巡りをされておられることを知り、仲間に加えていただくことにした。
 そのうち、奥谷氏や山添村長窪田剛久氏も来られたので、山添村のことについていろいろとお話を伺った。豊かな自然と長い歴史を有する山添村の方々の、地域への愛着と誇り、自立心、おおらかな人間性を感じた。
 空もかなり暗くなり、今日の宿泊場所へ行く時間となったので、ライトアップされて「天の川」を思わせる幻想的な情景となっている鍋倉渓を楽しんだ後、山添村遅瀬の名阪国道五月橋IC横にあるペンション「アートスコープはかた」まで、約二十数分車中の人となった。途中、山間を通ってのことなので、全くの闇の中であった。

 八時を過ぎての、遅い夕食となり、そこで初めてお互いの自己紹介があった。そして、食事しながら、夜遅くまで「磐座」談義に花が咲いた。「鍋倉渓」の岩群に人の手が加わっているかどうかで、対立した意見交換もあり楽しかった。また、「鍋倉渓」類似の景観が、広島にもあるとの情報が、広島から来られた女性から寄せられた。一度、行って見たいものだと、強く思った。近年、早寝の習慣となっている私は、一足先に寝ることにしたが、国道の騒音が耳について寝苦しかった。朝も、食事後、昨夜に引き続き、話がはずんだ。佐藤氏が、磐座に関連させて「秦氏」、「物部氏」、「銅の生産」、「神社の系譜」等について、いろいろと該博な知識をもとにした意見を、述べられたのだが、悲しいかな、基礎知識のない私には、ついていけない話が多かった。その後、たまたま、以前購入していたが未読のままの谷川建一の「白鳥伝説」、「青銅の神の足跡」のページをめくっていて、佐藤氏の話の理解がやや進んだように思った。その後、関連の本の収集が始まった。

 二日目の最初は、宿泊場所から遠くない中峰山の磐座群巡りであった。山というよりも起伏の多い、やや平地よりは小高くなった森といった感じであった。今回のツアーの一つの目玉ということであった。配布資料中の説明は以下の通りである。「山中のため案内がないと道に迷いかねない場所にありますが、イワクラの多様さでは村内随一。ギリシャ神話のアルゴー船のような舟岩、地蔵岩、球体石である手毬岩、UFO岩、太陽観測に使われたと思われる天狗岩、一対の男根石と女陰石、巨大な八畳岩、大神岩、その他名もない巨石、巨岩がゴロゴロあります」
 三時間近く、山中を歩き回り、実に多くの岩を見た。最近になって、『山添村いわくら文化研究会』で、命名した岩もあり、まだ名前のついてない岩もあった。ここでも、最高齢と思われる佐藤氏が、いつも先頭で隅々まで調査され、ノートにメモされておられた姿が印象的であった。。その、研究熱心さとお元気なご様子に本当に驚いた。佐藤氏によれば、これらの岩が、磐座であったかどうかは、祭祀跡を確認する必要があるが、周辺を発掘調査すれば別だが、表面的には何もその痕跡が見つからないとのことであった。ただ、中峰山入り口付近にある舟岩は、今回、繁った草に覆われていて、はっきりとは確認できなかったが、祭祀のあった事実が明らかであるようだ。ともかく、今後、二度とくることは出来ないだろうと思われる貴重な経験をさせてもらった。

 次に訪れたのは、中峰山地区内にある村内随一の社格を有するといわれる広い境内と立派な建物からなる「神波多神社」だった。小高い山か丘のような高い所にあり、見上げるような石段が続いていた。さすがに、皆、疲れており登るのをあきらめる人もいた。以下、ホームページ『山添村の聖石群』の中の、記載を引用する。
 「神波多神社は山添村の中峰山地区の鎮守であるばかりでなく、村全体でも『波多の天王さん』として崇敬を集めている神社です。『天王さん』とは牛頭天王のこと。神波多神社の主祭神である素戔嗚命は牛頭天王と同神とされています。山添村では牛頭天王信仰が盛んですが、まさにその中心を担う施設といっても差し支えないでしょう。
 神社の創建年代は不詳ですが、『延喜式神名帳』に記載のある古社で、有力な説によると『延喜式』臨時祭のとき、畿内の境10ヶ所に祀った疫神のうち、大和国と伊賀国の境に祀られた疫神であるといわれています。牛頭天王はインドの疫神ですから、その牛頭天王を祀る神波多神社が大和国と伊賀国の境に祀られた疫神であることは確かなことと思います。よって神波多神社は、推測するに律令国家建設後に、畿内を護る疫神鎮座施設として設けられたものだと推測されるわけです。
 しかし神社を設けようとした場所とは、その昔から聖域としてみなされていた所が選ばれることが多いようであり、当地もその痕跡として『鏡石』の存在が報告されています」
 残念ながら、「鏡石」を見ることは出来なかった。佐藤氏は、「秦氏」との関連を指摘されておられた。

 昼食を宿泊した「アートスコープはかた」でとり、十分に休息してから、まずは近くの「遅瀬の鏡石」と「遅瀬の亀石」を見に行った。そして、いよいよ、今回のツアーの最終地となる地点に向かって、バスに乗って行った。村のほぼ中心地あたりである。現在、山添村のイワクラのシンボル的存在となっている『長寿岩』である。「山添村イワクラMAP」には、次のように書いている。「直径7メートルのみごとな球体、推定重量約600トン。注目すべき点、それは赤道、子午線とおぼしき謎の『十字ベルト』がある」
 しかし、この岩は、平成七年に、「ふるさとホール」、「保健福祉センター」、「花香房(はなこうぼう)」からなる「ふるさとセンター」建設のために、丘を切り開いているときに出てきたもので、あった位置も置かれていた姿も、元の状態とは違っているのである。建設の邪魔になるとのことで、当初、爆破してしまう予定であったが、費用がかかりすぎると言うことで残されたそうである。それが、現在山添村の最も知られた観光名所となっているのである。
 皆さん、一角の産直センターや温室、花壇、遊歩道等がある約1ヘクタールの広さの「花香房(はなこうぼう)」で、大和茶等の農産物や、添加物を使ってない自然食品を、それぞれ購入して、一路、近鉄奈良駅に向かって帰ることとなった。帰り道は、月ヶ瀬街道で、途中、見事な家並みが見える柳生の里を通り抜けていった。

 今回、見学したイワクラは、山添村のイワクラの一部である。その全貌に接してみたい方には、ホームページ『岩石祭祀提唱地』のなかにある、先に紹介した「山添村の聖石群」や、その総論となる「山添村の聖石文化」に、ぜひアクセスしていただきたい。圧倒されるような内容である。さらに、自称「なぞのアーテイスト『滝澤祐一』」のホームページ『Vocation』の中にある、「『滝澤祐一』的歴史探訪・謎解きのたび」中の、“「イワクラ」の謎に迫る 奈良県山添村「イワクラ」探訪記”をご覧いただきたい。

 様々な人や、自然と文化に出会えた充実した2日間であった。やはり行って良かった。 これからは、書斎にばかり閉じこもらずに、もっともっと旅に出よう。(終わり)

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2007年4月10日 (火)

巨石巡礼(1-2)~奈良県山添村~

                  巨石巡礼記(1-2)
                                ~奈良県山添村~
                                       

 「六所神社」見学の後は、バスにかなりの時間揺られて、山添村の北東部に向かって行った。まずは、役場のある村の中心部周辺の下津地区(下西波多ともいう)にある「吉備津神社」を視察した。岡山の吉備津神社を分社したものであり、親近感が増してきた。
 山添村史に「当社は一大巨岩をご神体とし、拝殿はあるが、社殿はない。我が国神社の原始形態そのままを遺す神社で、古代人の自然崇拝の跡を伝えるものである」とあり、神社背後に近接して高さ約6m、幅約10mの立石状の巨岩があるが、容易には近づくことは出来ない。
 吉備津神社は端山の山麓にあるのだが、ホームページ『山添村の聖石群』によると、山添村では、各地で“山之神信仰”が見られ、木製祭具を供える祭祀儀礼が今でも残っているとのことで、同じような『山之神石碑』が各地に建てられているとのことである。端山では山腹にあるらしい。また、吉備津神社周辺には、北西に稲荷山があったり、たたり山といわれる山もあるそうだ。全体に犯してはならない聖なる地域となっているようである。

 吉備津神社の次は、村のより東部にあたる吉田地区の小字で岩尾というところにある「岩尾神社」に行った。村史の記載に、「当社は我が国神社の原始形態を遺存するもので、巨大大石がご神体である。古代人の大自然に対する畏敬から生じた信仰の表徴である」とあり、社殿裏にある二つの巨石は尋常ならざる大きさであり、圧倒的な威力を感じる。社殿から見て、左が『長持石』、右が『つづら石』とも称されているとのことである。近づいて、直接岩に触れることが出来た。
 前記のホームページ『山添村の聖石群』によれば、「社殿の右手前にも、2体の半球状の岩石が残っています。向かって左側が『鏡台』、右側が『ハサミ』とされています。他にも、神が休憩の際に水を飲んだという『石の水鉢』、『箪笥(タンス)石』、『葛石』などが残っているように、この神社に存在する全ての聖石は、集落の伝える『婿入り伝説』に基づくネーミングです。(中略)ところで、岩尾神社では『石売り行事』という奇祭があるそうです。内容はというと、16歳以下の少年が川原で拾った小石を参拝者が買い求め、その小石を神前に備えるという儀礼です。石を媒体にしている点、興味深い岩石祭祀事例の1つとして考えていきたいと思います」とあるように、『岩』の名の付く神社には、その土地の人々に、石に対する畏敬の心をさまざまな形で伝え残してきているようである。これらの文化は、私が住む地域にもあるはずであり、廃れさすことなく、継承していかなければならないとの思いが大いに高まった次第である。

 神社の発生に、いわくら(磐座)が密接に関係していることを、まざまざと実見して納得し、一日目の最後の見学先である、神野山の中腹にある森林科学館前広場で行われる「七夕のつどいin鍋倉」に向かったが、途中春日小学校旧講堂を活用した「山添村歴史民族資料館」を見学し、縄文時代草創期(今から12000年前)の遺跡からの発掘品等を見て、この地に人が住み始めてからの悠久の時の流れをに思いを馳せた。
 さらに、途中の道路脇にあった、菅生地区の「三枚岩」にも立ち寄った。一度みると妙にあとあとまで印象に残る形である。ごくちいさな丘の上に板状の立石が3枚重なり合ってたっている。由来等余りしっかりしたものはないようであるが、小さな祠はあるので、聖域であることには違いないようである。
 五時半頃から始まった「七夕のつどいin鍋倉」の主催者代表を奥谷氏が務めているらしく、開会あいさつをされたり、いそがしそうであった。コンサートや子どもたちによる民話、星空観察が行われ、いろいろの食べ物も売られていた。七時半まで自由行動ということになっていたので、わたしは、ひとりで、森林科学館からは少し離れたところにある「鍋倉渓」に向かって散策することとした。途中、道沿いに石造物である「塩瀬地蔵」や磐座と思われる「大師の硯石」があった。
   「鍋倉渓」についての山添村のホームページの記載は次のようである。「山の東北の中腹には、大小の黒々とした岩石がるいるいと重なりあい、幅10m、長さ650m余りにわたって溶岩のながれを思わせる奇勝『鍋倉渓』がある。この黒い岩石は角閃斑糲岩(かくせんはんれいがん)と呼ばれ地形、地質学上、他に類を見ない珍しい景観をなしている」確かに、何とも言いようのない感動が沸いてきた。
 沢山の人が、ライトアップにむけて、太陽電池による発光灯を、鍋倉渓の全域に設置している最中であった。耳を澄ますと、水音がしており、石の下をかなりの水量の水が流れているらしい。
 鍋倉渓に沿って作られている山の斜面の歩道を、上に登っていったが、足も疲れてきたので、途中で引き返して帰ろうとしたとき、下の方から上がってくる人影が見えた。今回のツアー参加者の一人であった。その方の言によれば、鍋倉渓の上端に磐座があるらしいということで、登り切ることの誘いを受けたのでご一緒した。私よりはるかにご高齢のようだが、足取りは軽くどんどん登って行かれる。そして、歩きながら磐座にまつわる様々な話をしてくださる。
 この方が、岡山から来られている『佐藤光範』氏であった。奇遇であった。「愛知発、巨石信仰」で取り上げた、平成十一年の三月に岡山市内のある古書店で手に入れた「古代祭祀跡 吉備の磐座」の著者である。
 とうとう、鍋倉渓の上端にあった「天狗岩」まで、たどり着いたのであるが、佐藤氏は、祭祀跡の痕跡等について、それはそれは丹念に岩の周囲を歩かれて調査された。ところで、鍋倉渓周辺には、この天狗岩をはじめ、八畳岩、竜王岩、王塚等があるらしいが、先に紹介した柳原輝明氏は、これらが天の川の主要な星々に対応しているのではないかとの仮説を出されている。鍋倉渓は、一見、天の川のような形にも見えるのである。さらに神野山の他地区にある磐座群も重要な天の星に照応し、あたかも神野山は天球のようになっているとの説を述べておられる(『神野山と天空の星』“イワクラ~巨星の声を聞け~”イワクラ(磐座)学会・編著 遊絲社所収)。古代のロマンが感じられる。
                                               (次回に続く)

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