2007年4月10日 (火)

巨石巡礼(1-2)~奈良県山添村~

                  巨石巡礼記(1-2)
                                ~奈良県山添村~
                                       

 「六所神社」見学の後は、バスにかなりの時間揺られて、山添村の北東部に向かって行った。まずは、役場のある村の中心部周辺の下津地区(下西波多ともいう)にある「吉備津神社」を視察した。岡山の吉備津神社を分社したものであり、親近感が増してきた。
 山添村史に「当社は一大巨岩をご神体とし、拝殿はあるが、社殿はない。我が国神社の原始形態そのままを遺す神社で、古代人の自然崇拝の跡を伝えるものである」とあり、神社背後に近接して高さ約6m、幅約10mの立石状の巨岩があるが、容易には近づくことは出来ない。
 吉備津神社は端山の山麓にあるのだが、ホームページ『山添村の聖石群』によると、山添村では、各地で“山之神信仰”が見られ、木製祭具を供える祭祀儀礼が今でも残っているとのことで、同じような『山之神石碑』が各地に建てられているとのことである。端山では山腹にあるらしい。また、吉備津神社周辺には、北西に稲荷山があったり、たたり山といわれる山もあるそうだ。全体に犯してはならない聖なる地域となっているようである。

 吉備津神社の次は、村のより東部にあたる吉田地区の小字で岩尾というところにある「岩尾神社」に行った。村史の記載に、「当社は我が国神社の原始形態を遺存するもので、巨大大石がご神体である。古代人の大自然に対する畏敬から生じた信仰の表徴である」とあり、社殿裏にある二つの巨石は尋常ならざる大きさであり、圧倒的な威力を感じる。社殿から見て、左が『長持石』、右が『つづら石』とも称されているとのことである。近づいて、直接岩に触れることが出来た。
 前記のホームページ『山添村の聖石群』によれば、「社殿の右手前にも、2体の半球状の岩石が残っています。向かって左側が『鏡台』、右側が『ハサミ』とされています。他にも、神が休憩の際に水を飲んだという『石の水鉢』、『箪笥(タンス)石』、『葛石』などが残っているように、この神社に存在する全ての聖石は、集落の伝える『婿入り伝説』に基づくネーミングです。(中略)ところで、岩尾神社では『石売り行事』という奇祭があるそうです。内容はというと、16歳以下の少年が川原で拾った小石を参拝者が買い求め、その小石を神前に備えるという儀礼です。石を媒体にしている点、興味深い岩石祭祀事例の1つとして考えていきたいと思います」とあるように、『岩』の名の付く神社には、その土地の人々に、石に対する畏敬の心をさまざまな形で伝え残してきているようである。これらの文化は、私が住む地域にもあるはずであり、廃れさすことなく、継承していかなければならないとの思いが大いに高まった次第である。

 神社の発生に、いわくら(磐座)が密接に関係していることを、まざまざと実見して納得し、一日目の最後の見学先である、神野山の中腹にある森林科学館前広場で行われる「七夕のつどいin鍋倉」に向かったが、途中春日小学校旧講堂を活用した「山添村歴史民族資料館」を見学し、縄文時代草創期(今から12000年前)の遺跡からの発掘品等を見て、この地に人が住み始めてからの悠久の時の流れをに思いを馳せた。
 さらに、途中の道路脇にあった、菅生地区の「三枚岩」にも立ち寄った。一度みると妙にあとあとまで印象に残る形である。ごくちいさな丘の上に板状の立石が3枚重なり合ってたっている。由来等余りしっかりしたものはないようであるが、小さな祠はあるので、聖域であることには違いないようである。
 五時半頃から始まった「七夕のつどいin鍋倉」の主催者代表を奥谷氏が務めているらしく、開会あいさつをされたり、いそがしそうであった。コンサートや子どもたちによる民話、星空観察が行われ、いろいろの食べ物も売られていた。七時半まで自由行動ということになっていたので、わたしは、ひとりで、森林科学館からは少し離れたところにある「鍋倉渓」に向かって散策することとした。途中、道沿いに石造物である「塩瀬地蔵」や磐座と思われる「大師の硯石」があった。
   「鍋倉渓」についての山添村のホームページの記載は次のようである。「山の東北の中腹には、大小の黒々とした岩石がるいるいと重なりあい、幅10m、長さ650m余りにわたって溶岩のながれを思わせる奇勝『鍋倉渓』がある。この黒い岩石は角閃斑糲岩(かくせんはんれいがん)と呼ばれ地形、地質学上、他に類を見ない珍しい景観をなしている」確かに、何とも言いようのない感動が沸いてきた。
 沢山の人が、ライトアップにむけて、太陽電池による発光灯を、鍋倉渓の全域に設置している最中であった。耳を澄ますと、水音がしており、石の下をかなりの水量の水が流れているらしい。
 鍋倉渓に沿って作られている山の斜面の歩道を、上に登っていったが、足も疲れてきたので、途中で引き返して帰ろうとしたとき、下の方から上がってくる人影が見えた。今回のツアー参加者の一人であった。その方の言によれば、鍋倉渓の上端に磐座があるらしいということで、登り切ることの誘いを受けたのでご一緒した。私よりはるかにご高齢のようだが、足取りは軽くどんどん登って行かれる。そして、歩きながら磐座にまつわる様々な話をしてくださる。
 この方が、岡山から来られている『佐藤光範』氏であった。奇遇であった。「愛知発、巨石信仰」で取り上げた、平成十一年の三月に岡山市内のある古書店で手に入れた「古代祭祀跡 吉備の磐座」の著者である。
 とうとう、鍋倉渓の上端にあった「天狗岩」まで、たどり着いたのであるが、佐藤氏は、祭祀跡の痕跡等について、それはそれは丹念に岩の周囲を歩かれて調査された。ところで、鍋倉渓周辺には、この天狗岩をはじめ、八畳岩、竜王岩、王塚等があるらしいが、先に紹介した柳原輝明氏は、これらが天の川の主要な星々に対応しているのではないかとの仮説を出されている。鍋倉渓は、一見、天の川のような形にも見えるのである。さらに神野山の他地区にある磐座群も重要な天の星に照応し、あたかも神野山は天球のようになっているとの説を述べておられる(『神野山と天空の星』“イワクラ~巨星の声を聞け~”イワクラ(磐座)学会・編著 遊絲社所収)。古代のロマンが感じられる。
                                               (次回に続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月 5日 (木)

巨石巡礼(1-1)~奈良県山添村~

          巨石巡礼記(1-1) ~奈良県山添村~                              

 一昨年末、インターネットで、『石』に関するホームページを検索中に、たまたま「イワクラ(磐座)学会」のあることを知った。入会申し込みをしたのは、昨年7月3日である。早速、入会の了承通知と、少し経ってからツアーの案内のはがきが届いた。

 しばらく行くかどうか思案したが、書斎に閉じこもるだけでなく、新たな世界へ一歩踏み出すのも良いことではないかと思い直して、締め切りの日、電話で参加申し込みをした。 8月5日(土)午後1時、近鉄奈良駅近くの商工会議所前が集合場所であった。駅の地下で、おいしかった和食の昼食を済ませ、地上に出たが、焼けつくような陽射しであった。近くに興福寺があるらしかったが、時間もなく見学はできなかった。さすがに観光地奈良だけあって、たくさんの観光客で賑わっていた。

 わたしが最初に到着したが、次第に参加者らしい人が集まってきた。そして、定刻頃に、今回の世話人である山添村いわくら文化研究会会長の奥谷和夫氏(村議)が仕立てた山添村からのマイクロバスがやってきた。 総勢12名(男11名、女1名)によるツアーとなった。後からわかったことであるが、東は神奈川県、西は広島県からの参加があり、岡山県からは私を含め3名であった。

 最初、資料をもとに奥谷氏から、手短なツアーの趣旨と日程の説明があったが、あとは隣り合わせの人との会話を楽しみながらの旅となった。バスの最後部に座った私の隣は、神奈川県からの40歳前後と思われる歴史に詳しい男性であった。相当に、全国の巨石巡りをされているように思えた。

 バスは木々の繁る細い山道を数十分曲がりくねりながら進み、山添村に入っていった。  古くは東大寺領だったといわれる山添村は、昭和31年に東山村、波多野村、豊原村の三村合併で出来た村であるが、近年の全国的な市町村の合併ブームの中で、近隣の町村が奈良市等と合併する中で、住民投票によって、今後とも自立の村づくりを進めていくことを選択した村である。奈良県の北東部、三重県との県境に接し、人口約4600人、面積66平方キロメートルで、周辺は奈良市、宇陀市、伊賀市、名張市に囲まれている。村の中央を名阪国道(国道25号線)が通り、大阪まで約1時間、名古屋まで1時間半の距離にある。 村内には、神野山(標高約六百十八メートル)、茶臼山(約五百三十五メートル)、高塚山(約五百七メートル)という3つの代表的な山がある。他にも多くの山々があり、村は、全体的に山間の多数の集落からなっているようで、広々とした平地は、ほとんどみられず、あちらこちらにある山または丘の斜面を利用した茶畑の多さに驚いた。そして、それが茶畑特有のおだやかで美しい景観を呈し、村の風景を至極好ましいものとしていた。とれた茶は、宇治茶にも原材料を提供しているようだが、多くは高級な大和茶となっているとのことである。 

 ところで、山添村では、「いわくら文化」再興を通じて、ひとつの村おこしをしているようにも感じられたのであるが、この、きっかけを作ったのは、現在「イワクラ(磐座)学会」の専務理事をされておられる都市計画家柳原輝明氏が、山添村の村づくりの基本となる総合計画に関わりをもたれたことにあるようだ。

 氏の略歴を記した一文につぎのような一節がある。「総合計画策定のおり、村内に点在する巨石に惹かれる。特に神野山に存在する巨石群と天空の星との相関関係を偶然発見し、イワクラ研究にのめりこむ(『イワクラ~巨石の声を聞け~ イワクラ(磐座)学会・編著 遊絲社』より)」 

 山添村では、以前平成15年11月22日から24日にかけて、第四回イワクラサミットが開催されたのであるが、ふるさとセンターのホールに立ち見が出来るほどの参加者で500名を超える人々が全国各地からやってきたということだ。当日のことはホームページ「イワクラ学会関連情報」や「磐座みい~つけた新聞」等で詳細を知ることが出来る。 

  ここで、すこし、イワクラ(磐座)学会の沿革に触れておきたい。イワクラサミットは、平成11年に岐阜県山岡町で第一回がもたれ、平成12年第二回を高知県土佐清水市、平成13年第三回は福島県飯野町で開催されている。4回のサミットを経て、平成16年5月に『イワクラを世に広め、古代の民族遺産であるという認識を得るために、さらには世界の共通語としていくための活動をする目的』で、奈良県新公会堂で400名の参加者を得てイワクラ(磐座)学会創立記念大会が開かれ、昨年は、7月16~17日に宮崎県立西都原考古博物館で総会が行われた。本年の総会は、三重県鳥羽市で5月27~28日に開催されている。

 さて、山添村のイワクラ(磐座)についてであるが、ホームページ『山添村いわくら文化研究会』に大字名・名称・写真・解説・備考という整理の仕方で、紹介されているのでご覧いただきたい。 山添村の磐座については、他のホームページ(『山添村の聖石群』)に、さらに詳細な報告がある。

 いよいよ、今回のツアーに入っていきたい。平成15年のサミットの2日目と3日目に行われた現地視察の対象地とできるだけ重ならないような配慮をし、①イワクラと神社の発生、②中峰山のイワクラ群,③神野山と鍋倉渓のライトアップの3点に主眼を置いたコースを計画したとのことであった。 まず、最初に訪れたのは、「天王の森」で、奈良市から山添村に入って、まもなくのところにあった。山添村の西端を流れる布目川につくられた布目ダムの上流の端に位置し、ちょうど橋のたもとにあった。約20メートル位の小山で、ダムもなく橋も作られていない時代には、頂上部にある数個の巨岩を川沿いの道から仰ぎ見るような形になっていたはずであり、信仰の対象として威厳もあったであろうが、現在は、頂上がほぼ橋の高さと同じになってしまい、山も一部が橋の橋梁部分に取り込まれているようで、景観が大きく損なわれてしまっていた。 配布資料には、「山添村史」の中にある以下のような一節が紹介されていた。「一種の巨岩崇拝と考えられ、山頂の巨石群に牛頭天王を勧請したので天王の森と呼ばれ、古くから神聖禁忌の地である」山添村には、各地に、牛頭天王を祭る場所があるらしい。

 次に行ったのは、「水神の森」で、先ほどの橋を逆戻りに歩いて渡り、布目川沿いを数十メートル上流に行った所である。同じく配布資料に「村史」の、その箇所を抜粋して載せてくれていた。 「布目川の中にあり、原生林に覆われた周囲100メートルの島である。下流には八丈岩と称する約17メートルの自然石による遙拝所がある。(中略)地域を水害から守るため水鎮の神として祭祀されたもので、近郊の信仰を集めており、毎年一回(7月)水神さん祭りが催され、近郷住民の憩いの場となる」 残念ながら、あたり一面大きな岩がゴロゴロしており、八丈岩を確認する所まで近づくことができなかったし、周囲の明確な島というような感じを抱くことも出来なかった。ただ川の中に、鬱蒼とした森はあったが、周囲の山と渾然一体となっているようにも見えた。

 次に向かったのは「六所神社」であるが、バスで、曲がりくねりながら非常に細い山道を登っていった。六所神社も、先の天王の森や水神の森と同じ大字峰寺地内である。六所神社は、氏神山を背後にかかえ、本殿が磐座(いわくら)と思われる巨石の上に建てられているのが特徴で、『延喜式』の天乃石吸神社ではないだろうかとも言われている。神社の成り立ちが納得できる形式である。境内には、磨崖仏の「毘沙門天像」や「不動明王」、「お百度石」「金毘羅碑」「行者石像」「観音石仏」「地蔵石仏」などの多数の石造物があるらしい。「山添村史」の内容は以下の通りである。「昔、神の降臨された巨岩をご神体としたが、後世その上に社殿を造営したといわれる。(中略)境内には、牛頭天王を祭る杵築神社、弁財天を祭る宗像神社、戎子大明神を祭る恵比寿神社などがある。巨岩に刻みつけられた不動明王像(建武5年=1338)は村指定文化財である」 (次回に続く)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年4月 1日 (日)

再 開

再 開

 3番目の孫との、夢のような楽しい1年間が過ぎた。数日前から、また独り暮らしとなった。長男の勤務の都合で、彼らは、隣接する市に移り住まざるを得なくなったためである。

 大変、寂しくなったが、時間だけは、たっぷりと生まれた。これから、2年後の定年に備えて、仕事のまとめをするとともに、定年後の人生設計をしっかりと進めたい。その前に、5年前に亡くなった妻の思いで集を、早く本にしなければならない。
  本年の最大の楽しみは、現在、宅地の一角に建設中の書庫への、これまでに収集した本の大移動である。「石想文庫」の看板を架けようようかなどと考えている。年末までに、すこしずつ移していきたい。

   ところで、昨年は、7月に『イワクラ(磐座)学会』に、思い切って加入したことが契機となって、『巨石巡礼』の機会が増えた。このことについては、このブログで、これから順次、紹介していきたい。
 以前、『愛知発、巨石信仰』という本を紹介したことがあるが、今月4月21日~22日に、この本の作者等が中心となって、「イワクラ(磐座)学会全国大会2007~イワクラサミットin豊田」が行われる。初日は、豊田産業文化センターで「巨石文化研究発表会」が開催され、2日目は豊田市と周辺の巨石をマイクロバスで見学する。
   私は、早速に参加申し込みを行ったところである。待ち遠しくてならない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年4月15日 (土)

記事中断

 2月はじめから、孫との同居がはじまり、

朝晩、忙しく楽しい日々が続いているため記事を続けることができません。

 7月から、再開したいと思いますので、それまでお待ち下さい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年1月26日 (木)

『川原の石(2)』

 『川原の石』を続けていきたい。
 
 幼児期、
川原の方面は未知なる奥地であったが、
小学・中学生時代は
自然の楽園となった。
 そして、
受験勉強の重圧に敗れそうになった高校生活においては、
孤独を癒してくれる場所であり、
異郷で過ごした大学生の間は、
ふる里を象徴するところとなった。
 卒業後、
地元に帰って、
社会人となり結婚して子供をもうけてからは、
親子のよきふれあいの場と変わった。
 現在は、
すべての子供が自立してしまい、
自分自身の
人生観、
世界観、
宇宙観の立脚点としての
豊穰な場所に育てあげたいとの想いが
年と共に強まってきている。
 
 子供時代、
河川敷はほとんど石ころだらけの川原といってもよいような状態だった。
当時、
夏の水泳といえば、
まだプールなど無い時なので、
高梁川によく泳ぎにいったが、
一息いれるため川からでて、
川原に上がったときの、
太陽に熱せられて焼けたようになった石ころの、
素足に感じた灼熱感が強烈に体いっぱいに刻まれている。
 熱くて熱くて、
足の裏を出来るだけ縮め膝を曲げて、
しかも早足で動き回らないと、
とても一所にはとどまれなかった。
一目散に草むらに駆けこんで、
座り込み疲れを癒しては、
繰り返し水の中に入って泳ぎ、
疲労困憊してから、
川原の石を踏み踏み家路に帰っていく姿が目に浮かんでくる。
 今から考えると急流も深みもある高梁川で、
本当に子供らだけでよくも、
泳ぎに行っていたものだ。
また、
友達との、
“水きり”という石投げ競争を盛んに行った。
平べったい手ごろな石ころをさがして、
水面との微妙な角度で投げ、
石が沈まず何度飛び跳ねていくか、
技を競いあった思い出も遠い昔のことになった。
 物の豊かさとは全く縁の無かった時代、
身近な川原という自然が子供に楽園を提供してくれていた。

 一方、その頃、
すべてを失って、
外地から引き揚げてきた祖父母や父母たちの苦労は、
子供心にもなにとはなく伝わってきていた。
 家だけは、
曾祖父がひとり、
先祖伝来のこの土地で守ってくれていたおかげで困らなかったが、
8人の大家族で
内3人の子供を育て上げることは大変なことだったにちがいない。
 皆が、
寡黙に、
朝から夜遅くまで、
それぞれの役割を懸命に果たして働いているのがよくわかった。
食べ物だけは、
自給自足に近い形に出来るよう、
親類から田畑を借りたり、
その上、
川原を開墾し畑にしていた。
 砂と石ころだらけの土地を耕して、
野菜作りをしていくことは、
慣れて無い仕事でもあり厳しい労働であったに違いない。
私たち子供は、
無邪気に芋などの野菜の収穫や石ころを掘り出すのを手伝ったり、
作業の合間には、
川原の石と雑草の中の雲雀の巣さがしや、
いろいろな昆虫やかれんな野草を見つけることに夢中になった。
夢幻のかなたの追憶である。

 さて、
現在の川原はすでに述べたように、
昔に比べると、
まことに小さくなってしまったが、
それでもまだ少しは残っている。
そして、
この場に“宇宙”を見ることが出来るようになったことについて、
最後に書いて見たい。
 季節の節目節目に、
川原に出かけていくと、
その石ころ群の間にどっかりと尻餅をついて、
石達との距離を小さくし、
ゆっくりと時間をかけて、
周囲の石達に目を凝らしていると、
形・大きさ・色・模様・重さ・肌触りなどから
一つとして同じものはない石達が、
この狭い場所に無限に存在する重みが迫ってくる。
 見えている表面だけでなく、
どこまで続くかわからない
暗い地下にじっとしている
石ころにも想いを廻らすと
宇宙的無限を感じる。
 まして、いまある姿になるためには、
気の遠くなるような時が経過しているわけである。
石ひとつを、
ひとつの星になぞらえてみれば、
まさしくこの川原は広がりつつある岩石群という宇宙の一部である。
 「石ころから覗く地球誌(小出良幸著 NTT出版刊)」
という本があるが、
そこでは、
長い長い時間をかけて上流から運ばれてきた
丸い石ころの履歴書を明らかにし、
故郷を探していく道筋をわかりやすく解説している。
さらに、
大地をつくる元素や地球の構造、
太陽系の始まり、
星の始まりなどの話に及んでいて、
石ころから壮大な宇宙的気分を味あわせてくれる。
 
 もうひとつ
「かわらの小石の図鑑〜日本列島の生い立ちを考える〜
(千葉とき子・斎藤靖二著 東海大学出版刊)」
という図版の非常に美しい本があるが、
三本の川(荒川・多摩川・相模川)の代表的な小石を写真で紹介し、
その性状について解説を加えている。
分析的な石の科学の深みに入っていこうという気持ちは毛頭ないが、
石と親しくなるためには、
名前程度は知っておきたい。
しかしこれが、
石においては意外に難しい。
川原の石は、
一見するだけでは、個性もなく皆似たようなところがある。
 ところが、
この本は、
取り上げている石の種類の適度さと写真の鮮明さ、
説明文の
わかりやすさで、
何となく同じ日本の川の仲間である
高梁川の石ころの多くについても、
その生い立ちを示す名称が分かってきたような気持ちにさせ、
石ころ星雲への親近感を増してくれる。
 
 「岡山県地学のガイド」の“まえがき”の冒頭に
「岡山県には、
古生代から新生代までのいろいろな時代の地層や各種の火成岩体、
あるいは変成岩類がきわめて豊富に分布しており、
昔から地学のメッカといわれ、
多くの学者や研究者が訪れています。・・・・・」と書かれているが、
中でも、
高梁川上流には
鐘乳洞と渓谷美の石灰岩台地や
世界的に有名な成羽の化石産出地帯はじめ
面白い多様な地質がみられる。
 そこの母岩等から分かれて長い時を経て、
流れ流れて下流の川原に集まっている小石達から、
流域全体はいうに及ばず、
地球の成り立ちや
宇宙の本質についてまで想いに耽ることが出来るのは、
なんと幸せなことではないだろうか。
 さらに、
特定の空の星が
自分に向けて
メッセージを投げかけてくれているように思えるときがあるように、
川原の石ころも、
よくみつめていると、
そのなかの一つが
私にとって特別な存在となる出会いに遭遇することがある。
 
 地球は、
大宇宙の無数の星のひとつで、
極めて単純化していえば、
巨大な母岩を核にして、
それから派生してきた岩石群や宇宙からの隕石の集合体であり、
そのうえに、
そこから発生した水や大気、
生物が付属しているといえる。
 そして一人一人の人は、
地球の上の極微な存在だが、
逆に大宇宙の中では、
地球も微塵にすぎないとみなせる想像力があり、
又、
一個の川原の石ころから
宇宙の生成をも夢想することができる力を持っている。
 私は、
遠くない将来やってくる老後の安心立命に向けて、
これからも私の川原で石を積みながら、
そこを
豊穰な
地球大的・宇宙大的空間のイメージへと
膨らませていきたいと思っている。
 いずれ、
果てしない生物の生と死は勿論、
星々の誕生と死をも一切を飲み込む込んでしまう限りない宇宙と、
私自身が
一体であることを
確かに信じることが出来るようになれるかもしれない。
                 
 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年1月25日 (水)

『川原の石(1)』

 川原には、多くの人を惹きつける
心のふる里としての形容しがたい魅力がある。
 
 これは、自然への素朴な本能的欲求と、
幼い時からの、
さまざまな生活体験上の
悲喜こもごもの思い出の集積による、
人それぞれの
川原に対する
熱い想いがないまぜあって形づくられているに違いない。
 
 そして、
人は、
時々、
思い出したように、
手近な川原に足を向けていく。
 
 街が人工的に、
すこぶる乱雑に都市化を進めている中で、
一日のほとんどを
社会的人間として忙しく働き続け、
また終日、
自然から遮断された生活で
息苦しくなって、
生き物としての自分自身を、
本能的に取り戻したくなることや、
ありし日、
川原で経験した、
牧歌的ともいえる夢をみることの出来た時代に想いを馳せて、
明日からの生きる力を回復しようとしているのではないだろうか。
 
 ところで、私にとっての『川原』とは、
岡山県内を流れる三大河川のひとつで、
もっとも西側に位置する
高梁川に架かる総社大橋の下、
南北約数百メートルに広がる空間である。
 ここは、
高梁川が、
中国山地の山奥に源を発してから、
延々と吉備高原の間を流れ下ってきて、
始めて総社平野に注ぎ出してきたところ(湛井堰)から、
少しだけ下流の広大な河川敷にある。
 
 ここで、
「岡山県地学のガイド〜地学のガイドシリーズ十一〜(コロナ社刊)」によって、
高梁川の全体像について少しばかり知っておきたい。
 高梁川は、
旭川が壮年の働き盛りで、
吉井川が働き盛りを過ぎた中年であるに反して、
元気なテイーンエージャーであるといわれ、
三つのなかで、最も短く、
延長約百十キロメートル
(ちなみに旭川百四十七キロメートル、吉井川百三十六キロメートル)
であるが、
支流の数は四十四(旭川三十四、吉井川四十三)と
もっとも多くなっている。
 
 そして、ひいき目でなく、
川沿いの景観の変化に富んだ面白さは、
一番ではないだろうか。
また、ほぼ伯備線にそって流れているので、
かなりの景色は汽車の中からでも見学できるのが利点といえる。
 【なお、日本文教出版株式会社の岡山文庫59「高梁川」では、川の延長と四次ま
での支流数は、高梁川百十七キロメートル・八十四本、旭川百五十キロメートル・百
三十二本、吉井川百三十七キロメートル・百九十八本で、人間の年令にたとえた活動
力はそれぞれ三十才台、四十才台、五十才台となっている。そして、高梁川は流域面
積は最も広く、縦断面のうわぞり角度も最も大きいと記されている

 この、私にとっての「川原」の風景が
いまや、
子供時代とは一変してしまっている。
これは、
全国どこの河川敷でもみられる現象ではないかと思われるが、
覆土されて整地がすすみ、
十分すぎるほどの面積をとった、
殺風景で広々した、
グランドができ上がり、
川原の部分が随分と小さくなってしまった。

  休日などには、
沢山の子供たちがサッカーや野球の試合などをして、
にぎやかにしている姿をよくみることが出来る。
 このこと自体は歓迎すべきことであるが、
なつかしい風景に二度と会えないかと思うと
一抹の淋しさを覚える。
 また、遊び仲間でもあった
バッタやキリギリスをはじめとした、
多種多様の昆虫や、ひばり、ツバメなどの野鳥等の
棲息環境をせばめてしまったことにもなる。
いろんな種類の美しく清楚な野草も
生き延びることが困難になったとみえて、
めっきり少なくなった。
ほどほどの開発で止めていただければと願うばかりである。
  
 さて、ここで
“川原”の意味するところについて考えてみたいが、
「川の両岸の、
いつもは水の流れていない砂や石の多い平地
(日本語大辞典 講談社刊)」
という解釈がとりあえず一般的とみなしておきたい。
 ただ、全国各地に散在している
いわゆる『賽(さい)の河原』といわれているところは、
実在の川が流れていないところも多い。
死者供養の聖域となっている『賽の河原』は、
 「・・・彼のみどりごの所作として 
       河原の石をとり集め 
         ここにて回向の塔を組む 
          一重くんでは父のため 
          二重くんでは母のため 
          三重くんではふる里の・・・・・」
というあの哀切きわまりない
「西院の河原(地蔵)和讃」とともにひろまっていったといわれる。
 
 「石の民俗(野本寛一著 雄山閣刊)」によると
    一 火山系で地獄を連想させるような場所
    二 死者が赴くと信じられる山
    三 灯籠流しなどが行われる実際の河原
    四 境意識が高揚され、他界との境を連想させられるよ
      うな峠あるいは峠道
    五 特定寺院の境内
などに場所が分類できるという。
 本当の川は流れていなくとも、
死者の住む他界とこの世(此界)の境界にあって、
穢れをはらうとされる仮想の精進川、
もしくはあの世の三途川が
根っこに想定されているのではないだろうか。
 なお、「石の宗教(五来重著 角川書店刊)」で、
柳田国男の「地名の研究」の中にあげられている、
石のごろごろとした石原に対して
各地に「こうら、こうろ」
あるいは「ごうら、ごうろ」の地名があることを紹介し、
こじつけではあるがとしたうえで、
必ずしも川と関係なくとも
『賽の河原』という呼称が
生まれてきたことを暗示しているのも興味深い。

  ともかく、
ここで欠かせないのは
『積石』のための沢山の石ころがあることである。
五来重氏は、
「石の宗教」の中で、
『積石』は
「仏教的な意味は、“石を積みて塔とする”ということにあるけれども、
日本人の原始信仰なり、
庶民信仰ではすこしちがうのである」とし、
「“あの世”と“この世”の境界に積石をして、
穢れが“あの世(神域)”へ入らないようにする」ことであるといい、
『賽の河原』の『賽』は、
『塞』と考え、
穢れや悪霊をさえぎっているのであると述べている。
 私たちが、神社仏閣はいうに及ばず、
山や川、森や海や洞窟などの自然に接したときなど、
そこに石ころがあれば、
おのずから積んでみたくなる
日本人としての心を大切にしたいものである。

        
 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年1月 3日 (火)

好きな『“石”の詩(5)』~金子みすず~

好きな『“石”の詩(5)』
金子みすず

 あけまして おめでとうございます。
 本年、最初の記事となります。

   昨年12月31日から帰って来ていた、
二人の子供夫婦家族が本日(1月2日)、それぞれ帰って行った。
孫達との楽しいひとときが、沢山の元気をくれた。
 
 急に、静かになった一人だけの家のなかで、
久しぶりに書いてみたくなった。

 明日(1月3日)は、五年ぶりの、
中学校同窓会を幹事として執り行わねばならない。
  これも、
これから一年間の元気の素になればよいがと思っている。

   さて、今回は「金子みすず(明治36年~昭和5年)」についてである。
    矢崎節夫氏の執念のご努力によって、
私たちは、今、“金子みすず”に出会えることとなった。

    「25年永年勤続表彰受賞を記念して購入
~お祝金をもとに~ 平成8年1月29日」
と記した、次の2冊の本が手元にある。
        「童謡詩人 金子みすずの生涯 矢崎節夫著 
          1995年9月14日第7刷    
                     JULA出版局」
      
     「新装版 金子みすず全集
              編集 与田準一、まどみちお、
                 清水たみ子、武鹿悦子、
                 矢崎節夫
        1.美しい町
        2.空のかあさま
        3.さみしい王女
       解説書・金子みすずノート(矢崎節夫) 
      1995年9月27日第17刷     
                 JULA出版局」

   金子みすず(本名テル)の短い生涯と、
矢崎節夫氏による、その発掘の過程は、
どのようなフィクションにも勝る
涙と感動の奇跡に近いような物語である。
 
 西條八十による金子みすず童謡の高い評価とその交流、
作品を託されていた実弟上山正祐とみすずとの関係と
矢崎氏の正祐氏との出会い、
離婚と子供を夫側に手渡さないための手段としての
自殺による満二十六歳の生涯、
金子みすずの一児の現在等々。
 そして、なによりも、一度接すると、
虜になってしまう、みすず詩の力に驚く。
 存在する全ての物や事象・風景等が、皆新鮮に感じられるようになるほど、
見方が一変する。
世界が、生き生きと動き出す。
不思議なこころに満たされるようになる。
そして、豊かな優しい心がよみがえってくるような気持ちがする。

 まずは、矢崎氏が大学1年生の時に出会い、以後の長い金子みすず探索のきっかけとなった、文庫本「日本童謡集 与田準一編 1957年12月20日第1刷 岩波書店」に、1編だけ載っている有名な「大漁」を次に紹介しておきたい。

     朝焼小焼だ
     大漁だ
     大羽鰮(いわし)の
     大漁だ

     浜は祭りの
          ようだけど
          海のなかでは
          何万の
          鰮のとむらい
          するだろう。

 現在、上記2冊の、
金子みすずに関する原典とも言うべき書物に頼らなくても、
多くのみすずについての本が出版されつづけている。
 しかし、この2冊こそが、もっとも重要な書物である。
      
   【以下は1月3日同窓会終了後に、続けて書いた部分である】

  全集には、死を覚悟して、西條八十と実弟上山正祐に、渡された三冊の遺稿手帳に記された512編の詩が収められている。
 この中に、題名に「石」が含まれているものとして、『美しい町』の中の「石ころ」、「濱の石」、「切り石」、『空のかあさま』の中の「空屋敷の石」、「石と種」がある。また、題名には入ってないが、詩本体に“石”の語が入っているものが数編ある。

   以下に、「石ころ」と「濱の石」と「切り石」を引用させていただく。

              「石ころ」

          きのふは子供を
          ころばせて
          けふはお馬を
          つまづかす。
          あしたは誰が
          とほるやら。
         
          田舎のみちの
          石ころは
          赤い夕日にけろりかん。
         
              「濱の石」
         
          濱辺の石は玉のよう、
          みんなまるくてすべっこい
         
          濱辺の石は飛び魚か、
          投げればさっと波を切る。
         
          濱辺の石は唄うたひ、
          波といちにち唄ってる。
         
          ひとつびとつの濱の石
          みんなかはいい石だけど、
         
          濱辺の石は偉い石、
          皆して海をかかへてる。

                「切り石」

           石屋に切られた
          切り石は、
          飛んで街道の
          水たまり。
         
          学校もどりの
          左側、
          はだしの子供よ、
          気をつけな。
         
          切り石や切られて
          おこってる。

  ほとんどの人は、石ころなど歯牙にもかけない。
  しかし、金子みすず的に石ころを見れば、
  いろんな物語が生まれる。
  石ころから、さまざまなことを学ぶことも出来る。
  石ころぐらいしかない殺風景なところでも、退屈することはない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月19日 (月)

林宏著 『鏡岩紀行』

林宏著『鏡岩紀行』

 “巨石”関係の記事を、また投稿してみたくなった。
 
 過日、『愛知発 巨石信仰』について紹介したが、
その中では巨石を11に分類していた。
そのひとつに『鏡岩』があり、
愛知県内7カ所と県外3カ所の鏡岩が取り上げられていた。
個々の紹介に入る前に1頁の解説があり、
そこの末尾に、
“(「鏡岩」平成12年林宏氏著参照)”との記載がみられた。

 今回は、
その林宏氏の本との出会いについての記事であるが、
その前に、まず触れさせていただきたいことがある。

 数日前、ある検索エンジンで、
私のこのブログのタイトル「石と在る」を検索した時、
その検索結果に『季ノ組』という変わった名称が出てきたので、
早速、そのホームページを開いたところ、
“面白いブログが見つかったので、
年明けにでも読んでみたい”
とのコメントをつけて、
私の「石と在る」を紹介してくれていた。
大変に光栄なことで、この場で、お礼を申し上げたい。

 驚いたのは、
『季ノ組』の“巨石”関係情報の膨大な量であった。
毎日のように、
新聞等に載っている記事を採録してくれているだけでなく、
リンクが非常に充実している。
一挙に、
私の
巨石・聖石領域の世界の視野が広がったように思った。
磐座学会が出来ていることも、初めて知った。
『愛知発 巨石信仰』の中で、ちょっとだけふれた
「古代祭祀跡 吉備の磐座(原稿作成平成元年、印刷発行平成四年)」
の著者佐藤光範氏が、
その学会で、発表されていることもわかった。
同じく『愛知発 巨石信仰』に記した、
『祭祀が語る古代吉備』の著者である
古代祭祀研究家の薬師寺慎一氏が関係する
ホームページ(古代祭祀研究会)もあることが分かってうれしかった。
 圧巻は、「求道者」、「泰山の古代遺跡探訪記」、
「Web魁(さきがけ)」 、
「LITHOS GRAPHICS」、
そして音楽家吉田達哉氏の「世界の石」等の
ホームページである。
それぞれ、そのホームページの世界に入って行くと、
興味深い内容に、なかなか抜け出せなくなってしまう。
私は、
いまだに普通の電話回線によってインターネットをしているので、
限られた時間しか、とどまっておれないので困ることとなる。

  『季ノ組』関係者、
「求道者」作者、吉田達哉氏、磐座学会関係者等々、
石や岩に惹かれる心を持ってしまった人々は、
後で紹介する林宏氏も同様であろうが、
私も、
石や岩に惹かれだした理由を、
明快には自身に説明できないまま、
そこから離れなくなり、
奥へ奥へと深く関わりを持たざるをえなくなったとの
想いがあるのではなかろうか。

 私自身については、いつか、
その根本的理由の解明をしていかねばと思っている。

 シュルレアリスムの旗手で
詩人・小説家のアンドレ・ブルトンに
「石の言語(巖谷国士訳 書物の王国6 『鉱物』 
国書刊行会発行所収)」という作品がある。
その中の一節が恐いくらいに、
今の私が浸りつつ在る状況を
説明してくれているようにも思えるので、
少し長くなるが引用しておきたい。
 
 「石は、
成人に達した人間の大多数をすこしも立ちどまらせずに、
そのまま通りすぎさせてしまうわけだが、
それでも万が一ひきとめられるような人がいると、
もう、とらえられて放さなくなるのが常である。
石たちは、たがいに押しひしめきあっているすべての場所で、
そうした人々を魅きつけ、
いわば彼らを、
とりみだした占星術師のようなものにしてしまうことをよろこぶ」
 そして、その作品の最後で、
石は生きていて言葉を持っているかのごとく述べている。
 「石たちは、
とくに硬い石たちは、
まともに耳をかたむけようとする人々に対して、
語りかけつづける。
聴く者ひとりひとりの尺度に応じて、
石たちは言語を持つ。
聴く者の知っていることを通して、
石たちは、聴く者の知りたがっていることを教えてくれる。
石たちのなかには、
呼びあっているように見えるものもある。
ふと近づいてみると、
石どうしが語りあっているさまに出あうこともある」
 
 石が生きているという感覚は、
文明の進んだほとんどの現代人にとっては
無縁となってしまったが、
時代を遡れば、
あらゆる民族が、
石に命があることを信じることなくして
生活することはできなかった。
 石は人間の進化の過程において、
いくたびも根源的で決定的な役割を果たしてきており、
また、今日にいたるまで、
人間社会のあらゆる場面において、
必要不可欠な要素となってきたからである。
石との切っても切れない関係が、
感謝、親しみ、驚異、畏敬、畏怖等となり、
人と同類あるいはそれ以上の命ある存在として、
無数の生きてる石の説話を
残すことにつながっているのではないだろうか。

   さて、林宏氏の「鏡岩紀行」であるが、
その存在を知ったのは、
2000年12月13日付け
「日本経済新聞」の最終頁にある「文化」欄であった。
この「文化」欄は、
私は、いつも愛読しているのである。
 林宏氏同様、
長年にわたって、ひとつのテーマで取り組んできた、
地道な、あまり目立たない文化的業績を
本人に語らせるスタイルをとっている。

   「古代の神秘映す『鏡岩』
~津々浦々訪ね歩き、調査結果を自費出版~」 という見出しの
林宏氏自身の手に成る
記事の書き出しの一部を以下に引用する。
 
 「我が国には、
古くから
全国に『鏡岩』または『鏡石』と呼ばれる岩石が
各地に残っている。
文字通り人や物の姿を鏡のように
よく映す岩のことで、
明治・大正時代ごろまでは歌に詠まれたり、
名所になったり、
信仰や伝承の対象として語り継がれてきたが、
現在では知る人は少ない。
私は五年前から
各地の鏡石・鏡岩五十八カ所を訪ね、
それらにかかわる伝承を調べてきた。
今回調査結果をまとめ、自費出版した」
 記事の最後に名前とともに、
愛知淑徳高校教諭であることが記されてあったので、
早速、高校の所在地を調べ、
お手紙をして、本を入手した。
 副題に
「地震が残した断層面の神秘な輝き」 とあり、
2000年8月22日発行の
中日新聞社出版開発局制作で、
四百二十頁の、
江戸時代の鏡岩の入った名所図会や
現在の写真等が豊富に入った見事な本である。
また、名所図会の絵のある乳白色の表紙カバーが実に美しい。
惚れ惚れとするような書物である。
 
  『考察編』、『探訪編』、『付録』から構成されている。
  『探訪編』に収められている鏡岩は、
京都府5カ所、滋賀県2カ所、和歌山県5カ所、
奈良県2カ所、兵庫県1カ所、三重県5カ所、
岐阜県6カ所、愛知県13カ所、静岡県4カ所、
長野県3カ所、福井県3カ所、埼玉県1カ所、
茨城県1カ所、千葉県1カ所、徳島県3カ所、
岡山県1カ所、福岡県1カ所である。
   
  『考察編』に、
鏡岩は、すでに風土記に記載があると書き、
木内石亭の「雲根志」には
5カ所紹介されているとし、
今日まで鏡のような輝きを保っているものは、
殆ど残ってないと述べている。
輝きが持続するのは500年程度かと推測している。
以下、この編の見出しだけ示しておきたい。
    ○「鏡石」「鏡岩」 は、本当に鏡になる岩か?
    ○「鏡石」「鏡岩」 は、いつ頃から知られていたのか?
    ○中国にも「鏡石」はあった
    ○出現時期が明らかな「鏡石」「鏡岩」
    ○「鏡石」「鏡岩」 にかかわる様々な伝承
      ・人や物の姿を映したという伝承
      ・輝きが強すぎて漁民を困らせたという伝承など
      ・人の心の善悪を映し出すという伝承など
    ○かつては「鏡石」「鏡岩」を磨いた時代があった
    ○「鏡石」「鏡岩」はかつて信仰の石だった
    ○鏡肌の人為的消滅伝承の謎と「鏡石」「鏡岩」の破壊
    ○「鏡石」「鏡岩」が多く見られる場所とは?
    ○特殊な「鏡石」「鏡岩」
         ・池中の「鏡石」
         ・「屈み石」か「鏡石」か
         ・鏡肌を持たない「鏡石」「鏡岩」
         ・不思議な伝承を持つ「鸚鵡石」も鏡肌の岩
     ○「鏡岩」という名前を持つ男たち
    ○鏡肌の寿命
    ○まとめに代えて

  『考察編』の、次のような最後の一節が強く心に残る。
 「効率主義に基づく競争原理や時間の制約に囚われて
毎日アクセク生きている私たちにとって、
『鏡石』や『鏡岩』は
そうした現代人が忘れ去ろうとしている自然界が
私たちに与える驚きや安らぎの大切さに気付かせてくれる
一種の『清涼剤』として、
古代から送られた美しくもはかない
『贈り物』のような気がしてならない」

 大いに共感出来る考えである。私も、石の随筆シリーズで、
何度か、似たような感懐を述べている。

 ところで、私は、未だ鏡岩はひとつも見たことがない。
まずは、岡山県の1カ所「備前市八木山にある鏡石神社の鏡石」に
行ってみなければならない。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2005年12月14日 (水)

好きな『“石”の詩(4)』~久門正雄~

好きな『“石”の詩(4)』
~久門正雄~

 これまでに、すでに紹介している、
作品社の日本の名随筆(88)
『石(奈良本辰也編、1990/2/25発行)』の中で、
私が一番好きなのが、
久門正雄氏の愛石志(抄)である。 
 
 この抄録は、中間の作庭に関する部分である。
原文の前半と後半で、
石の本質や日本人の愛石の全体像を、
やや難解ではあるが、
文学性香気の豊かな表現で、
しかもバランスよく的確にまとめてくれており、
こちらのほうがどちらかというと、
幾度も繰り返し読みたくなる石についての文章なのである。

 これが収められている原本は
「石の鑑賞(昭和二十九年十二月十日発行、理想社)」である。
そして、「石の鑑賞」は、
「石の発見(昭和十九年一月二十五日、宝雲舎)」
の増補改訂版であり、
“発見”では、
前半に築庭と石に関する各論的な数編の作品を置いて、
後半に総論的な愛石志が九十頁分を占めている。
 
 一方、“鑑賞”では、
人と石の不思議な関わり、
石を愛する道、
庭石からの石の発見などが、
全体的な視点で、
文学的にまとめられている
愛石志は冒頭に配置されており、
愛石入門書としても“発見”より、
手にとってわかりやすい。

 「石の鑑賞」、「石の発見」とも、
石に関連する新旧の本の蒐集を始めた初期に、
ある古書店で探し当て、
私の大切な座右の書となっている。
愛石志を超えるような、
石と人間の関係の奥深さについての総合的な文学作品が、
書けるようになりたいものである。
私の今後の大きな目標となっている。
 
  両書の中に、私は、未だ見ていない、
著者の旧著にあたる
『掌上の石』から石の詩が2編収められている。
一つは本の題名になっている“掌上の石”で、
もうひとつが3部構成の長詩“石”である。
今回は、短い前者のみを取り上げ、
いつの日か、長詩“石”も紹介したい。

               掌上の石

         手ごろな石を拾うて
         掌の上に、
                  じいっと支えてみる。
                  ほどよい重さが
                  静かに感じられる。
                  その石を
                  そろりと握り、
                  もそっと強く 握ってみる。
                  おそるべき硬さが
                  身にこたえる。
 
 私は、この詩にならって、
机の上に置いてあるいくつかの石ころを、
ときどき手に取って、
持ち上げ握りしめることがあるが、
他のどのようなものにもない独特の、
重さを感じるとともに、
今ある形になった、長い時の経過や、
いろいろな場所での様々な圧力・困難等に想いをめぐらすと、
生あるものの避けられない孤独が癒される。

 ここで、久門正雄氏の略歴を引用しておきたい。
  日本の名随筆(88)『石』によると、
「1892~1982,歌人・随筆家。
愛媛に生まれ二松学舎で学んだのち、
女子教育に従事。その後歌集『小さい足跡』を上梓。
故郷の愛媛県西条市で、著作活動を続けた。
西条史談会会員、西条市文化財保護委員長等を歴任」  、
また著書『言葉の自然林(方言俚語の詳密研究と日本語原論))
昭和四十九年八月二十五日刊行』に載っている、
著者自身による著作歴は以下の通りである。
 
 「○赤とんぼ(歌集)、○未尽集(先妣に対する哀慕歌集)、
○文法を中心としたる小倉百人一首の解釈、
○頭註花月草紙、○真生(月刊歌誌。廃絶)、
○群鳥(月刊歌誌。廃絶)、○春宵(歌集)、
○掌上の石(詩歌随筆)、○逕(歌集)、
○新居浜市誌語誌編(昭和二十五年市役所舎屋と共に消失)、
○石の発見(嘗て見ざりし文化史的石の見方)、
○高秋田とその画(高秋田に関する唯一の書)、
○伊藤鉄石についての聞書とその作品(伊藤鉄石に関する唯一の書)、
○石の鑑賞
【本の中で紹介した青石のその後についてやや長い説明があるが省略する】、
○日本美(一部分、雑誌へ発表)、
○美しいものの見方【原稿や紙型が消失した経緯紹介省略】、
○小さい足跡(周平に対する哀悼編)、
○国語拾遺語原考【廃棄すべき書で、次の書で完成に近づけたと記す】、
○言葉の自然林
(前出国語拾遺語原考を廃棄にして、増補改修、更に日本語原論加ふ)、
○宿命論【長い説明があるが省略】、
○諸雑誌へ諸小論【長い説明あるが省略】、
○作詞ー校歌・寮歌・社歌等、
○校閲ー薄田泣菫全集散文部・西条市誌【説明省略】、以下略」

 最後に、思いもかけないようなことであったが、
久門氏の子供さんとなる女性との出会いについて記しておきたい。
私が、数年前から、石の随筆シリーズを寄稿している、
ある同人誌的な雑誌で、
私の「『石の来歴』随想」に興味を持ってくださった、
同誌の寄稿家K氏から誘いをうけて、
K氏が別に主催している同人誌的な雑誌に、
私も、ライフワークと考えている
「健康観」についての随想を載せていただくようになって、
しばらくしてから、
その雑誌に時々、
原稿を寄せておられる女性が、
久門氏の子供さんに当たられる方だとの紹介をいただいた。
そして、一度だけ、手紙の交換をさせていただいた。
随分と励みとなった内容の文面であった。
いつか、機会を得て、
久門正雄氏の著書の全貌や蔵書等に
触れさせていただけるようなことが出来たら、
どんなにかよいだろうかとも願っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月10日 (土)

『石』の総説

    『石』の総説
 
 時を遡るほどに、
石と人との間には豊かな関わりが存在していたことは
誰しもおぼろげながら知っている。
しかし、ことさらにそのことを大切に想っている者の数は
ごく限られているといってもよいだろう。

 人の知力の成果、
あるいは人工のあだ花に満ち満ちた現代社会の中で、
便利快適さに酔い、快楽を欲しいままにしている人々も、
今一度、人の存在の根源にある「石」に想いを寄せ、
それと対峙することで
「生」のより深い意味を考えてみることの意義は
大きいのではないだろうか。
 
 自然そのものの「石」から
人生を学ぶことができる奥の深さや、
「石」の飾らぬありのままの美への感動をどのようにしたら、
一人でも多くの人に伝えていくことができるだろうか。
このことに心をくだいた人や
その作品等に出会えることは私にとって大きな喜びである。 

 平素は、ほとんど人々の意識に上がることのない
「石」と「人」との長い長い物語りを、
いつのことになるかはわからないが、
『石想記』という表題でエッセイ風にまとめることができたら、
というのが私の数少ない夢のひとつである。
   
 「石想記」の基本コンセプトは、
人類発祥以来の石との関わりの全体に想いを巡らし、
そのことで人間の精神に
「石」の重しを置き安定化を図るとともに、
謙虚さに加え、自然を畏敬する心を取り戻すことである。
 
 多くの先人の業績を参照し、
石が及ぼした人間精神の奥底を探りつつ、
より多岐に渡る石と人との関わりの全体を
網羅した内容を目指していきたい。
 
 私がこれまで収集してきた石に関する書物の中で、
石と人間生活について、
いささかなりとも全体的視点で
まとめられているものは以下の通りである。
 
  (1)石の文化史 M.シャックリー 岩波書店
  (2)新・石の文明と科学 中山 勇 啓文社
  (3)石のはなし 白水晴雄 技報堂出版
  (4)石ころの話 R.V.デイートリック 地人書籍
  (5)パワーストーン百科全書 八川シズエ 中央アート出版社
  (6)愛石家の地質教室 大森昌衛・小林巌雄 徳間書店
  (7)岡山の石 宗田克巳 日本文教出版株式会社
  (8)石と人生 渡邊萬次郎 誠文堂新光社[「別冊農耕と園芸 水石の     
     心・石の味」所収]
  (9)石の文化 岸加四郎 高梁川流域連盟[「高梁川第三十八号特集      
    『石』」所収]
  (10)日本人と石 株式会社エス出版部
  (11)石の神秘力[別冊歴史読本] 新人物往来社
 
 これらに加え、
分野は異なるが「石神信仰 大護八郎 木耳社」、
「石の民俗 野本寛一 雄山閣」、
「新・石の伝説 石上堅 集英社文庫」等も
ぜひ参考にしていかねばならない。
さらには、木内石亭の「雲根志」を忘れることは出来ないし、
錬金術、石器時代、巨石文明、鉱物資源、
現代石彫刻、石仏、水石、石垣、石臼、石橋等々に
ついてのモノグラフも活用していかねばならないだろう。
   
 以前に紹介した『石に叱られて』の「はじめに」は
わずか3頁であるが、
私が構想しつつある「石想記」を極めてコンパクトにまとめた、
いわばエッセンスといってもよいような内容である。
 
 「遠い遠い昔、人間が石を投げて獲物をとり、
猛獣から身を守り、敵と闘っていた頃のこと」
という書き出しで始まり、
「石窟や鍾乳洞の中に住居していた人間は、
生活用具の中に石を採り入れ、
石器を創り、やがて鉱石をみつけてゆく」とすすめて
「石を素材として生み出された人間の歴史は、
石を科学的に征服した歴史でもある」
とし、「然し現代ようやく、
征服の歴史はやがて征服される運命にあると、
気づき始めた人達によって、
石の世界への見直しが始まってきた」、
「石に生かされて来たという深い宗教的反省は、
宗教的思考を益々高め深めさせている」、
「今まで石に教えられ、慰められ、励まされ、
そこに拓かれて来た私の人生には、
忘れ難いものが沢山ある」等の文が続く。

 ここで、上記の石と人との関係の総説のうち、
いくつか、その構成内容を示しておきたい。
もっとも代表的成書といえば 
M.シャックリーの「石の文化史」であろうが、
これは「序章」、「地球の歴史」、「道具・武器・人為物」、
「煉瓦とモルタル」、「石材の設立」、
「化粧品・宝石・装身具」、「医術と技術」、
「儀礼・宗教・呪術」の各章から成っている。
「序章」の最後は以下のような文で結ばれている。
 
 「地球を構成する岩石は、
生物としての人類が発達してくる際に
重要な役割を担っていたものであり、
事実、初期人類の道具の材料として利用されて以来、
岩石は人類にとって役に立つものだった。
今日においても、
人類はさまざまな意味で岩石に依存する部分が多く、
〈化石〉燃料である石油資源や、
古代文明の技術が
いかんなく発揮された巨大な石材などをみるまでもなく、
これは明らかなことである。
この地球上に存在する岩石は、
われわれの最も重要な資源であるばかりでなく、
他のものによって代用することが全くできない
貴重な資源なのである。
以下の章において、
人類がこのような資源としての岩石を利用してきた方法が、
いかに人類の文化史の流れの中に
反映されているかをみていくことにしょう」
 
 次いで、渡邊萬次郎氏(前秋田大学学長)の
「石と人生」であるが、
“石のいろいろ”、“石の利用”、“石の一生”、
“石の産地”の各章から成っているが、
このうち“石の利用”で、
石と人の関わりの全体を通観している。
「原始生活と石」、「古代生活と石」、「近代生活と石」、
「石と土建」、「石と産業」、「家庭と石」、
「宝石と飾り石」、「石と迷信」、「石と宗教」、
「石と戦争」、「石と芸術」、
「石と風景」、「石と洞窟」、「石と盆栽」、
「水石の特徴」、
「庭石の意味」の項目で組み立てられている。
      
 なお、「人類の歴史の九九パーセント以上は、
利器に石器を使う石器時代である。
人類史に占める石器時代の重要性は
再認識されるべきである。
単に時間が長かったというだけではない。
この間に今日の私達の社会を作りだしている
もっとも基本的なものがすべて準備されていたのである
([石器時代の世界 藤本強 
教育社歴史新書 一九八〇年四月]より)」という点は、
必ず「石想記」の根幹に置いてまとめていきたいものである。
 
 最近出版された本
「文化としての石器づくり 
大沼克彦 学生社 二〇〇二年五月発行」の
「はじめに」の中でも次のように書かれている。
 
 「世界に文字や都市国家が出現して、
人間社会のありさまが記録され、
今日まで残っているのは、
ほんのここ五千年ぐらいのことであり、
四百万年ともいわれている
人類史のわずか八百分の一にすぎないということである。
 私たちは、石器が、
私たちの遠い祖先が霊長類から分離して以来、
つねにつくられ、
使われてきたもので、
私たち自身の先祖が残した
人類共通の遺産であることをつい忘れがちである」
 
 さらに、火山から噴き出される大量の石、
大雨のとき土石流となって流れ出す石、
また空から流れ落ちて来る隕石など、
どれひとつとってみても「石」は、
今日の科学文明の時代においてさえ、
脅威と不思議に満ち満ちていることの認識が
重要性であることを「石想記」で強調していきたい。
また、「石」は、
他の動物が備えているような鋭い爪も牙もなく、
速い足や、樹木の上を器用に行き来する術も持っていなかった、
なんともあぶなっかしくも頼りない存在の私達の祖先に、
身を守る隠れ家であり住処となる洞窟や、
武器を提供してくれた上に、
数知れない生活用具の素材となっていったのである。
感謝してし過ぎることはない。

 「石」の計り知れない未知なる力と
恩恵への思念・情念が、
人類の遺伝子というか
本能にインプットされていないはずがない。
人は、「石」への無意識な畏敬の気持ちから、
世界の各地で、
必然的に多くの大小さまざまな
石の聖地を生み出さざるをえなかったと私は考えたい。
今日、皆が足を運ぶ寺院や神社、
及び巨大列石等の聖地は、
そのうちの極一部であるに違いない。
今では、忘れられてしまったり、
埋もれてしまっている聖地も
数多く存在するのではなかろうか。
それらの掘り起こし、
復活が大切である。
 
 さて、最近読んで、
我が意を得たりと思った
「聖地の想像力〜なぜ人は聖地をめざすのか〜
 植島啓司 集英社新書 二〇〇〇年六月発行」
という示唆に富んだ本がある。
そこから、いくつかの箇所を引用して
、本編を終えることとする。
 
 「聖地というのは
ほとんどが地質学的な境界線上に
おかれているという事実がそれだ。
そのメルクマールとして、
それは必ず石によって表示されている」
 
 「『なぜ聖地は一センチたりとも
場所を移動しないのか』というと、
『そこに石(石組み)があったからだ』
ということになる」
 
 「聖地は最初から聖地なのである」
 
 「多くの石によって印しづけられた区域は、
古代よりいかなる有為転変を繰り返してきたのか。
また、『神地』の正方形はいったい何を語るのか。
いまでは想像するしかないのだが、
おそらく磐座から
『神地』を経て社殿へと移り変わるなかにおいても、
そこで行われてきたこと自体は
ほとんど変化がなかったのではなかろうか」
 
 「聖地とは夢を見させる場所である」
 
 「あらゆる聖地での治療は、
特定の場所で眠らせて(籠り)、
夢を見させ、そのお告げによって
病気を治す方途を探るものである」
 
 「かつての日本において、
神籬(ひもろぎ)や磐境(いわさか)が
神社の起源であることはよく知られたことであるが、
それらは天体ともよく結びついていたのだった。
われわれは目印なしには
時間も空間も計測することができなかったのである。
そして、そこは必ず夢を見るところなのであった」

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2005年12月 7日 (水)

好きな『“石”の詩(3)』~草野心平~

好きな『“石”の詩(3)』
  ~草野心平~

『石の随筆アンソロジー』で記しているが、
作品社の「日本の名随筆88“石”」は、
29編の石に関連した随筆が収められており、
その巻頭作品は草野心平の「石」である。
 私は、まだ見ていないが
『火の車』の中の一編とのことである。
草野の石庭についての想いが綴られている。
その中で、以前の自らの詩を活用している。

      雨に濡れて。
            独り。
            石がいる。
            億年を蔵して。
            にぶいひかりの。
            靄のなかに。

  この詩をもとに清水脩氏が作曲をしていることを紹介し、
以下のように述べている。
 「雲の曲があって石の曲がない筈はむしろない筈である。
時間と天然のなかに日夜ぢかにふれている、
ふれているといふよりは
そのまっただなかに常にいる
石のそれぞれちがったあの石の姿といふものは、
またあの美しさといふものは、
いはば人間修身の参照にもなる
遠く深くまた実に石の如く重たいものである。
言葉につつまれた石、
音楽の沸きたつ石、
その石を、
庭のまんなかに一つどっかとおくことは
おかしな話でもなさそうである」

 ところで、私は、
倉敷市にある古書店「長山書店」で
、手に入れた「草野心平詩全景 筑摩書房」を所持している。
昭和四十八年五月二十五日発行の
限定1200部の内の第551番である。
 先の詩は、詩集『天』の中にあり、題は「石」である。
 全景を、ざっと見てみたが、
石の詩は、少なかった。二編紹介しておきたい。

         母岩

     帯止にうるむオパールの、しかしその原石の美しさに
     比べればずっと落ちる。
          と自分は思う。
          耳にぶらさがる翡翠の光るみどりの。しかしその原石の
          美しさに比べればずっと落ちる。
          と自分は思う。
         
          六カラットのダイヤモンドの。しかしこれもまた
          その原石の美しさに比べればずっと落ちる。
          と自分は思う。
          その他。みんなおんなじだ。と。
          自分は思う。
         
          母岩。
          美しい原石を孕み。
          流れる熱い物質の。
          ながい時間をかけての。
          獅子の尻の穴のように堅くちぢまり
          自ら生成した原石の。
          原石をつつむ母なる岩の。
         
          南米の。
          アフリカの。
          中国の。
         
          地球の深い地層のなかで修身した。
          母岩と原石。
         
          黒い沈黙のなかで。
          焼けた物質。
          冷えた結晶。
         
                  石
                  
           なつはぜと五葉の松と。
     割れ目から生え。

     雨あがり濡れて。
     苔の花御影の肌に映る。

     深いしづかな。
     去来の底で。

     蟻や菌。
     魑魅魍魎の大伽藍。

     雲。
     天に。
          吸いとられて青く。
         
          滴もつ草にかこまれてにぶく。
          石光る。
         
              
  ところで、『足立巻一の「風土記の大石」』の中で、
『石の随筆アンソロジー』で、
私が企画したアンソロジーの第1番目に、
草野心平と対比して、
足立自身の石に惹かれる心の背景・理由を深く考え抜いた一文
「母岩と破片(『石の星座』所収)」を置いたことを述べた。

  「母岩と破片」では、
草野の随筆『方々の石(“朝日新聞”夕刊・昭和49年12月12日)』
が引用されているのであるが、私は、ずっと、
この全文を読んでみたかった。
そして、やっと、
1年前、これも「長山書店」 で見つけることが出来た。
 
  「所所方々 1975年11月25日発行 弥生書房」
という本に収められていた。
62編中の1編で僅か4頁の短いものである。
しかし、草野の石に惹かれる心の内が凝縮された内容である。
昔の友達が、
草野の石好きのあるエピソードを書き記していたことを紹介した後、
次の一文が続く。
 
 「自分はどういうわけか
加工された宝石類には全くといっていい程興味がない。
もらいたいとおもったこともないし
買いたいと想ったこともない。
自分がひかれるのは、
むしろそれらを含んでいる母岩である」
 
 このことは、私にもいえることである。
不思議な精神の共通項を感じる。
さらに次のような文章が続いている。
 「こうした母岩たちが地球の方々に眠っていること、
そこを人間がかぎつけてあばき出し、
レールやタンカーやカミソリなどをつくる、
その人間と自然との関連が自分にとっては面白い。
そんな理屈をぬきにしても
ただ眺めるそのことだけでも自分には楽しい。
この一文を書いているまん前のテレビの上には
青森産の瑪瑙の塊がのっかってるが、

まるでミクロコスモスと向きあってるような気がしてならない。
母岩などは地球の表面になどは滅多にころがってはいないだろうが、
どこにでもあるちっちゃな、
どんな駄石でも構わない、
旅先で拾うのがいつの間にか自分のクセになってしまった」
   
 そして、外国へ行く友達へ、
その地の石ころを拾ってきてくれるように依頼する話をした後、
以下の文がある。

             「神はおれから遠ざかり。
              近づいたのは石と天。
     
     これは自分のある詩の一節だが、
    天や石については相当数の詩を書いたことが想い出される。
    どうして石が自分に近づいたのか分からないが、
    自分の方が石に近づいたと言った方が妥当のようだ。
    私にはどうも
    地球創成期への郷愁みたいなものがあるらしく
    石もどうやらそれに続くものの一つとして
    自分には近い存在である」
   
     なお最後に、
    これも長山書店で購入したものだが、
    草野に「小動物抄 昭和53年11月15日発行 新潮社」
    という著書があり、
    その中に50数頁もの
    『石』という作品があることを付記しておきたい。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月 2日 (金)

好きな『“石”の詩(2)』~山尾三省~

好きな『“石”の詩(2)』
  ~山尾三省~

最初にご報告です。
マイリストに、
リンクをつけることが出来ました。
情報をお寄せいただいた方、
ありがとうございました。
この場でお礼を申し上げます。

 2回目は山尾三省さんです。
惜しくも、2001年8月28日、
62歳で亡くなられました。
屋久島に居を据えた、
現代の聖者とも思えるような方でした。

  『石の随筆アンソロジー』で、
私が企画した2番目に、
山尾三省さんの「ジョーがくれた石:地湧社」所収の
「僕の石」を置きました。
「ジョーがくれた石」には、
副題として“真実とのめぐり合い”が添えられており、
12編が収められている。
“第一部 彼岸”として
「花崗岩片の話」、「ジョーの石」、「尼蓮禅河の砂」、
「霊鷲山の赤石」、「ポカラの鉦叩き石」、
「東大寺三月堂の裏木戸の石」、

 “第二部 此岸”に
「一湊川の二十畳岩」、「ラーがの丸石」、
「諏訪之瀬御岳の溶岩のかけら」、「つつじのそばの石」、
「順子が拾ってきた石」 、
そして「僕の石」がある。

 『序にかえて』に、
以下のような、
私を虜にするような一節がある。

 「(前略)僕が取り上げた石は、
どこに出もあり誰でもが出会っているはずの、
そこらにあるごくありふれた石ばかりである。
しかしながらそのごくありふれた石が、
ありふれた石のままで金剛のような輝きを持つことが、
人生にはないわけではない。
それは言葉をかえれば、
出会いという真実が、
この世にあることを示している。
旅とは、出会いの旅にほかならない。
なにに出会うのかといえば、
自分自身の自己に出会うのである。
(中略)『石』をモチーフにしたけれども、
僕が求めているものは『石』そのものではない。
それは第二部において少しずつ姿を現してくるのだが、
『故郷性』という言葉で呼ばれるべき風景であったはずである。(以下略)」

   山尾三省には、多くの著作があるが、
『新羅万象の中へ:山と渓谷社』の二十七編中の一編「石の時」で、
石に惹かれるようになった経緯が述べられている。
 
 「ぼくが石に興味を持ちはじめたのは、
二十六、七歳のころからだったと思う」
という書き出しで始まっている。
最初の、古い時代の瓦のかけらとの出会いに触れ、
「それが、最初で、以後折に触れて、
訪ねた場所の石を拾うことがぼくの生き方の一部になったが、
それは石自体の美しさを拾うというよりは、
訪ねた場所のスピリットを石とともに持ち帰り、
日常生活の精神的な糧としてささやかに祀るためであった」
 
 また、旅に出るときに屋久島の花崗岩を三個か四個持って行き、
喜んでくれる人にだけプレゼントするのだという。
 「ぼくが旅に持って出るのはそれで、
その石は少なくとも
地上千五百万年の時間を秘めていることを伝えて、
神話力のある人にはプレゼントすることにする」、
「それを物語として受け止めるか、
ただの小石として見過ごしていくかはもとより各人の勝手だが、
ぼくは生き方として、そこに物語を見、
さらには神話をさえ読むことを好むのである」

 さて「石の詩」であるが、
『アニミズムという希望~講演録・琉球大学の五日間~:野草社』の中に、
見つけたものである。
“第十五話 日月燈明如来”にある。

         石

     石は
    終わりのものである
        だから人は 終わりになると
        石のように黙りこむ
        石のように孤独になり
        石のように 閉じる
       
        けれども
        ぼくが石になったときは
        石はむしろ 暖かいいのちであった
        石ほどあたたかいものはなかった
       
        あまり暖かいので
        そのままいつまでも
        石でありつづけたいほどであった
        事実ぼくは 一週間ほどは石であった
       
        石は終わりのものではない
        石は はじまりのものである
        石からはじまると
        世界はもう崩れることがない 

    なんでもない「石」に惹かれている者、
「孤独」というものを大切に考えている者に
勇気を与えてくれる詩である。

 詩の後に続く文章の一部です。
「どのような石であれ、
何万年何千万年という時間をもっているわけですから、
その長い時間のもっている力というものがあります。
その石の限りなく深い力をもらうことができます。
時には自分を石に化する、
化石じゃなくて、石に化する。
午前中に、
野口体操の身心論ということを少しお話しましたけれども、
心身を石に解き放ってみるということも、
決して悪いことではないと思います」
 
 私も、これから実践してみたいと思っています。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005年11月30日 (水)

好きな『“石”の詩(1)』~坂村真民~

                            好きな『“石”の詩(1)』
                               ~坂村真民~
   詩歌のなかの、
さまざまな石のイメージは、
石に学ぼうとしている私にとって、
極めて貴重である。

 そのため、
折に触れ
『石』が中に込められている詩歌を、
採集しノートに書き写してきた。
そして、これまでに、かなりな数が蓄積されてきた。
 
 書き留めたノートは、
私の宝物といっても過言ではない。
小杉放庵、岡麓、草野心平、堀口大学、
与謝野晶子、壷井繁治、武者小路実篤、室生犀星、
八木重吉、高村光太郎、中島敦、
石川啄木、西条八十、金子光晴、金子みすず、
山尾三省他、数多くの詩人、歌人、俳人の名前が見られる。

 もっとも作品が多いのは、
かなわぬ夢ではあるが、
私が、これからの生き方において、
最も近づきたいと思っている
四国(詩国)の愛媛県に在住の坂村真民さんである。
 
 これらの詩歌と向かい合うことによって、
「石に向き合うことは、
自己自身に向合うことにほかならない
(矢内原伊作『石との対話』より)」ことが
、一層深められ、
生涯の課題である
自分の不思議の探究が少しは進んでいくような気持ちがする。
 
 これから、これらの詩歌のいくつかを取り出し、
「石の詩」で扱われている「石」のイメージから、
どのようなことが学びとれるものか考えていってみたい。
そのことで、
今後、さまざまな石に向かった時の感覚が、
従来より豊かで、
深く鋭敏なものとなっていくことを期待している。

 第一回目は、
明治42年熊本県生まれの、
元国語教師で、
仏教詩人といわれる坂村真民さんの詩である。
自ら詩国と称す四国愛媛に住んでいる。

 沢山ある石の詩のいくつかを紹介したい。
(大東出版社より『坂村真民全詩集(全6巻)』がでている)

      石の声

          しっかりしろ
          しんみん
          そううしろから
          声をかけるのがいる
          ふりむくと
          何万年も
          ひとところに
          じっとしている
          石だった

      石にいのちを

          この石に
          わたしのいのちを
          吹きこんでおくのだ
          そう念じながら
          石にむかって
          お経をとなえる
          石はわたしの願いを
          肌に刻み込み
          光る夜は
          風と共に
          声をあげるだろう
         
           浜に行ってごらん
         
          浜に行ってごらん
          石ころでも
          波に自分を
          磨いているのです
          おのれを円くするために
          光る存在とするために

  石は生きている者である。
孤高の指導者であり、
分身でもあり、努力を怠らない者である。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2005年11月22日 (火)

足立巻一の『風土記の大石』

 『風土記の大石』は、
『石の星座(編集工房ノア)1983年4月25日発行』所収」
の中の一編である。
「石の宝殿」について書かれたものである。

 「石の宝殿」を紹介する前に、
足立巻一について、記しておきたい。
「石の随筆アンソロジー」で、
私が企画したアンソロジーの第1番目に、
『石の星座』の中の「母岩と破片」を置いた。

 草野心平と対比して、
自身の石に惹かれる心の背景・理由を深く考え抜いた一文である。
その中に、次のような一節がある。
 
 「草野(心平)さんの詩の壮大さには到底およびもつかないけれども、
わたしも石を好むようになってかなり久しい。
石の詩もかなり書いて、
『石をたずねる旅』と題する詩集を出したのも、
昭和三十七年四月で、
以来年々、石に近づくことが加速される」
 
 この詩集を探し続けて、
やっと、平成13年4月の29日(日)、
万歩書店倉敷店の詩歌集コーナーに、
無雑作に重ねてあったものを偶然みつけた。
その時は、心が踊った。極めて廉価であった。
 
 後で知ったが、
足立巻一には、
土曜美術社の日本現代詩文庫の15巻目として、
足立巻一詩集(1984年6月29日発行)があり、
『夕刊流星号』、『石をたずねる旅』、『バカらしい旅行』、『雑歌』等
が収められている。
石の詩は『石をたずねる旅』以外にも、
幾編か散見される。
 
 「母岩と破片」の終わり部分で、
石に惹かれる理由を述べているので引用しておきたい。
 
 「・・・でも、
詩人(草野心平)が石においておもしろがった人間と自然との関連は、
わたしの印象、あるいは手元にある石においても変わりがない。
また、草野さんの、
『地球創成期への郷愁みたいなもの』という悠遠な思いは薄いが、
わたしの場合も人間の原初の心に惹かれていることも事実である。
(中略)・・・とすれば、
わたしが石に惹かれてきたことは、
原初の哀感とでもいったものかもしれない」
 
 足立巻一は、
 名作「やちまた」はじめとした業績にとどまらず、
その辿った経歴等、大変興味深い人物である。
 「発掘 司馬遼太郎 山野博史 文藝春秋(平成13年1月20日発行)」
の中には、
記者クラブ時代以来の司馬遼太郎との交友が詳しく書かれている。
 
 また、そこで紹介されている司馬の弔辞は、
足立の誠実な人柄を彷佛とさせる。
 石好きの人が、このような人物評価をされていることがうれしい。
 「・・・足立ツャン(司馬氏はこう呼びます)は、
自己のない人だった。人のことを考える人だった。
だから足立ツャンと会っていると、
自分も足立ツャンになりたいと思うようになり、
そうしょうとする。
しかし、やはり足立ツャンにはなれないことがあとでわかる。
文学は自己を語るものだが、
自己のない足立ツャンの作品が文学になりえたのは、
己を無にし、昇華したところで書いたからだ」
 
 司馬には、
足立への追悼文
(「虹滅の文学―足立巻一氏を悼む
【産経新聞大坂版 1985年8月19日付朝刊】」
“以下、無用のことながら”所収文藝春秋 平成13年3月1日発行)
があることを書き添えておきたい。
 
 足立と石との関わりについては、
いつか、もっと深く考察してみたいと考えている。

   さて、「石の宝殿」についてであるが、
足立の作品によって、
私は、はじめてこの巨石の存在を知った。

 どうしても実物を見たくなり、
平成12年8月3日、
姫路市であったある会議の帰りに、
足をのばして『日本三奇 史蹟播磨国石乃宝殿 生石神社』を訪れた。
驚くべき大きさであった。

 もっともっと多くの人が、
ここを訪れて、昔の人が感動し、畏敬したように、
巨石に敬虔になってもらいたい。

 このことは、
全国各地にある「磐座」等の巨石についても同様である。

  「石の宝殿」は、
はるか昔の713年に撰進された「播磨国風土記」の印南郡の条に、
記載されているというのである。
「原(池の原)の南に作石あり。
形、屋の如し。長さ二丈、広さ一丈五尺、
高さもかくの如し。
名号を大石といふ。
伝えていへらく、
聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なりと
(岩波版『日本古典文学大系』による)」
 
 そして、
「こうして石の宝殿は中世以降信仰の対象となったが、
江戸時代も中期からのちになると、
謎の巨石として世人の奇異の目を集め、
多くの地誌・紀行・随筆に名跡として書かれた」
 
 足立は、
「大石は『風土記』の時代から謎の世界にはいっていたとみていい」と言い、
「石の宝殿」に関する、多くの文献を渉猟し、
由来を考察している。
 
 石棺ではないか、と最初いった「山片蟠桃」、
仔細に実測し、その報告を大正11年“建築学会誌”に発表した「関根貞雄」、
昭和7年に兵庫県が出した
“兵庫県史蹟石勝天然記念物調査報告”第九輯の中に論考のある「武藤誠」、
「松本清張」の小説“火の路”、
蘇我氏が一定の目的で作らせたとする
“日本史の謎・石宝葵殿(昭和53年、六興出版)”の著者
「間壁忠彦・葭子」、
斉明天皇の陵墓の石材説の「猪熊兼勝」
等を紹介した上で、
「浅田良朗」の
“【播磨龍山在石工の系譜】序説
(神戸女子大学紀要第九巻・昭和五十五年二月)”で
展開された考えに賛同している。

 すなわち、
「印南野辺りいったいを支配する一大勢力者
または現地石作集団を支配下に置く者と規定してはどうだろうか。
何れにしても、
龍山在石工たちの綿密な設計と卓抜的な技術の結晶に他ならないようで、
これには誰しも敢えて異論を唱えることは出来ないだろう」

 最後に、
足立の「石の宝殿」に接した時の感動の言葉を引用して終わりたい。
 
 「わたしは大石のまわりを何度か、ぐるぐる回った。
が、正体が石棺であるのか、
そうでないのかということよりも、
この古代の巨石が石彫として表現するスケールの大きさ、
エネルギーの充溢に感動した。
それとともに石彫の上に流動した
さまざまな伝承や信仰や心情や推論などの混淆の歴史に興味をおぼえた。
それは一個の石塊に憑依した日本の精神史といってもいい。
わたしは長い時間の旅を経験したように想った」

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2005年11月19日 (土)

『愛知発 巨石信仰』

 旅をすると、思いがけない書物との出会いがある。

 9月、4人目の孫が生まれたので、
徳川家康が生まれ育った愛知県岡崎市に、初めて行った。
 名鉄線東岡崎駅で、少し時間があったので、
構内にあった岡崎書房に入った。 

 そこで、『愛知発 巨石信仰』に出会った。
素晴らしい本に心がふるえた。

 全国に流通していない本である。
旅先でないと決して手に入らない本である。
平成14年8月発行で、発行者は『愛知磐座研究会』となっている。
研究会は9名で構成されている。
写真が豊富な、445頁もある簡易な箱入りの本である。

 「まえがき」を一部、紹介しておきたい。
「巨石信仰は、原始時代から始まり、
元来自然の大きな岩を崇め奉った風習をいう。
岩は長く残るので現代までも信仰の続いている所もある。
(中略)巨石信仰はまた、殆どがあまりにも古い話なので、
現代人から無頓着にされていることが多い。
山の中とか海岸などに、名前のついた岩が沢山見受けられるが、
それらは昔から謂われのあったものであろう。
(中略)巨石信仰の記録は少ないが、
月日を重ねて調べてみると対象物は非常に沢山あることが分かった。
従ってとても全国までも掲載することは出来ないので、
愛知県内を主に取り上げ、
それと関係するような県外のものは一部分だけに止めた。(以下略)」

 次に、目次を要約してみる。
   第一編  磐座(県内の磐座33カ所、県外の磐座27カ所)
      第二編  環状列石(県内の環状列石6カ所、県外の環状列石16カ所)
      第三編  岩壁(県内の岩壁15カ所、県外の岩壁4カ所)
      第四編  岩神(県内の岩神35カ所、県外の岩神10カ所)
      第五編  岩屋(県内の岩屋12カ所、県外の岩屋3カ所)
      第六編  雨乞い石(県内の雨乞い石6カ所、県外の雨乞い石2カ所)
      第七編  船石(県内の船石3カ所、県外の船石3カ所)
      第八編  腰掛・物見岩など(県内10カ所、県外3カ所)
      第九編  金勢様(県内11カ所、県外4カ所)
      第十編  鏡岩 (県内7カ所、県外3カ所)
      第十一編  その他の磐(県内29カ所、県外10カ所)

    県外のものには、私が住む町の巨石も取り上げられており、
とりわけ愛着が増した。

  ところで、随筆集『石と在る』の中の1編「石・自然・社会」に、次のような部分(一部改変)がある。

 “岡山県総社市上秦【かみはだ】に、
延喜式神名帳にある式内社
『石畳(いしだたみ、又はいわだたみ)神社』がある。
 そして、そこには、
実に見事な神社のイワクラ(磐座)としての巨岩がそそり立っている。
私は、この風景を見るのが好きで、たびたび近くに行く。
また、これまで岩の頂上付近まで何度か上ったことがある。

 そこからは、流域の生きとし生けるものの命をはぐくむ、
高梁川のうねった流れを一望することができる。

 ここに来ると、いつも、
大きな大地の懐に抱かれている気持ちとなり、
さらには、この地に住んだ、
はるかなる過去の人々との、
絆も実感でき、気分が一新する思いがする。

 古代祭祀研究家の薬師寺慎一氏は、

『祭祀が語る古代吉備』で次のように記している。
 「(前略)高梁川は、古代の人々にとって、
水運とかんがいの両面において、
極めて大切なものであったに違いありません。
その高梁川が大きく曲がる地点、
つまり、上流から流れて来た川水が岸に当たる地点に、
そそり立つ巨岩(石畳神社)は、
大事な川の祭祀を行うのに格好の
神のヨリシロであったと考えられます。(後略)」

 
 数年前、行きつけの古本屋で、
珍しい「磐座」に関する本に出会い購入したことがある。
本の題名は「古代祭祀跡 吉備の磐座」で、
吉備地方を中心とした、
県内各地に散在する101箇所の磐座(いわくら)を、
写真と手書きの地図で紹介し、
それに由来を考察した文章を添えた、
自費出版本(原稿作成平成元年、印刷発行平成四年)である。
 腰巻きのように表紙に、
『今「いわくら」が面白い』とあり、
見開きに「いわくらを見にいってみませんか」とあるのが、
著者(佐藤光範)の、
磐座への強い愛着を表わしているように思える。
 古代からの、人と石の神聖な関係を残し続けている磐座は、
現代人にとってもまたとない癒しの場となるし、
愛石・敬石への格好の入り口となりはしないか。
 本書にとりあげられているいくつかの場所は、
私も時々訪れて、元気を回復する場である。
まだまだ、行ってみたい所がいっぱい残っている。   

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2005年11月14日 (月)

石の長者『木内石亭』

   築地書館より出された、

木内石亭(1724~1808)の代表作『雲根志』の

復刻、訳注、解説付の函入り限定1500部の一冊を、

ほぼ二十年位前、出張で東京に行った時、

神田神保町の明倫館書店のショウケースに見つけ、

ただちに購入したことを昨日のように思い出す。

 生涯を賭けた奇石収集の熱情において、

古今に、木内石亭以上の人物がいるだろうか。

私が目にした、

木内石亭について書いている作品は、いくつかある。

 まずは、現代の石亭ともいうべき、

益富寿之助氏の『石〜昭和雲根志1〜(六月社刊)』であるが、

自序の中で「雲根志が扱っているような奇石を紹介し、

以って一般の人々の石への関心を高めんがために

綴ったものである」と上梓の意図を語っている。

 本書は、新書の変形版で、

石亭小伝、石亭につながる3人とその遺品、

第1編としての二十七の奇石解説が内容となっており、

あとがきで第2編、3編を予告しているが、

私はいまだ目にしていない。

 ついで、昭和十三年出版の森銑三著

「おらんだ正月」の中の一編に、

「石の長者といはれた石の蒐集家木内石亭」という作品がある。

著者は、昭和五十三年十月発行の新版

「おらんだ正月(冨山房百科文庫20)」の後記で次のように記している。

 「内容は、江戸時代の科学者、

実学者達の小伝五十二編を収めており、

それより先に、雑誌『子供の科学』に連載したものに、

さらに幾編かを書足して一部の書としたのでした。

その材料には、諸先生方の研究を、

勝手に使わせてもらっており、

私自身の研究するところなどは極めて少ないのですが、

もともと年の行かぬ諸君の読物としてこしらえたので、

そのことも許していただかれましょうか。

私としては、ただ少しでも平易な、

興味をもって読んでもらうことの出来る文章を書こうと、

その点に骨を折ったというにとどまります」

  以上からもうかがえるように、石亭伝としては、やや物足りない。
 他に、「考古学の先覚者たち(森浩一編)中央公論社刊」の中の

「石之長者 木内石亭(土井通弘)」がある。

  しかし、なんといっても、斎藤忠氏によって、

吉川弘文館の人物叢書として出ている伝記が本格的なものである。

その中に、次のような一節がる。

   「十一歳という年齢のときから石を愛し、

そのながい生涯を通して石に執心した。

『石よりほかに楽しみなし』とみずから語り、

晩年には、人がたずねてきても、

石よりほかに話をすることを禁じさせ、

その人を二日も三日も逗留させて、

石を見せ、石の話のみをなした」

 石亭は、さまざまな視点からの多様な石をあつめており、

石と人との関係について考察する事例として、このうえない人物である。

 木内石亭の著作をまとめたものとして、

昭和11年、下郷共済会発行の

「石之長者 木内石亭全集(中川泉三編)」があるが、

極めて入手が困難な書籍であった。 

 これまで、いろいろな古書店で、

注意深く探し続けてきたが、

なかなか出会うことができなかった。

ところが、ある古書のインターネット検索注文が、

きっかけとなって数年前から、

隔月に送って来て頂いている、

東京神田の中野書店発行

「日本の古本屋 在庫だより 古本倶楽部」の

昨年11月号(161号)で書名を発見し、

翌日、ためらうことなく朝一番に電話注文をした。

これまでも幾度か、

一寸の油断で、欲しい本の先を越されたことがあったので、

朝が待ち遠しくてならなかった。

 値段は、4万7千余円と、

いささか高価な買い物であったが、

この時は、躊躇することはなかった。

 毎度のことであるが、

翌日には配達された。

和綴じ形式の6巻本で、

函は、折り畳み様式となっている、

函に少しの傷があるだけの新品同然の書籍であった。

大いに満足した。

編者中川泉三氏の

大変な研究上の御苦労が随所に偲ばれる

見事な内容の本である。

全巻の目次を紹介しておきたい。

   第一巻(91頁)
     木内石亭伝
     総   論
     石亭の著書
       曲玉問答   百石図

   第二巻(104頁)
     石亭の著書
       奇石産誌   石亭二十一種珍蔵目録
       化石の四説  石 筌
       舎利之辨   龍骨辨
       鏃石伝記   天狗爪奇談
       木内家に存する蔵石一部分の目録

   第三巻(130頁)
     石亭の著書
       雲根志前編

   第四巻(150頁)
     石亭の著書
       雲根志後編

   第五巻(131頁)
     石亭の著書
       雲根志三編

   第六巻(131頁)
     石亭の交友と史料
      稀壽と賀詞
       大納言中山愛親卿寄詩
       大納言芝山持豊卿祝歌
       赤田臥牛翁賀詩
       二木長嘯翁画賛祝詞
       泉涌寺僧宏雲賀詩
       紀九老筆米元章拝石之図
       野村公臺の木内石亭銘
      諸国の交友
       西遊寺鳳嶺と諸国集記
       服部末石亭
       飛騨高山の二木俊恭と石亭の書翰三十七通
       石山寺畔の奇石会
       石亭茶道の懐中日記
       木内氏略系図
       石亭遺言状の一節
         付録 肥田崇徳寺の蔵石

 これから、時間をかけて、

この全集等を十分に読み込み、

木内石亭とは、いかなる人物であったのか、

わたしなりの解釈をおこなって、

いつの日にかまとめてみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)