2008年7月17日 (木)

正木山の磐座

                          正木山の磐座
                         ~総社のイワクラ(磐座)2~
                              

 本年1月2日、天気は晴れ、昼から正木山(381メートル)に登った。昨年末、偶然に知ることとなった金子(かなご)部落からの登山コースにした。
 正木山は、わが家の二階や毎日の通勤時、総社駅のプラットホームから自然と目に入ってくる。私の心の中では、最近,“神体山”としての重みが増してきている。
 マイカーを持たない身なので、自転車で、総社大橋を渡って、秦方面に向かい、山崎部落の細い坂道を上がって、金子大池の土手に出た。そこは、急に視界が開けて別天地にでも来たようであった。池の周辺は懐かしい古き良き農村風景がしっかり残っていた。穏やかな水面に、水鳥が多数戯れている金子大池の背後に、美しい姿の正木山がゆったりと聳え立って見える。これから、その頂に行くのだと思うと、心が弾んだ。
 坂を上がったばかりの土手の一角には、『式内 麻佐岐神社遙拝』と刻んだ年代を感じさせる大きな石碑がある。また、並んだ位置に金毘羅宮の堂々とした石塔がある。振り返ると、福山や伊与部山が一望できるのも嬉しい。
 金子部落内を抜け、登山口に自転車を置いて歩き出した。道は幅2メートル近くあり、山道としては広く、舗装はされてはいないが、よく管理されている印象であった。しばらく登った右手の谷に墓地があり、そこに、まだ新しい祠があった。降りて近づいてみると『大山神社』の名があった。高さ1メートルほどの三角形の石が祀られていた。辺津の宮ともみなせないことはない。また近くに神が降臨する木(おがたまのき)が植えられていた。
 道に帰って、1時間近く登った所に、『中津宮(大祓谷)』と記した小さな立て板がある。そこは、ちょうどウエルサンピア岡山(厚生年金休暇センター)方面や福谷方面からの道と交わった場所である。特に,岩や建物跡は見られない。昨年11月末に、ウエルサンピア岡山方面から頂上を目指した時には、笹に覆われていて気づかず、素通りして金子部落に降りてしまったのだ。今回は、きれいに笹が刈り取られており、頂へと、ここから急に向きを変えて急斜面となるごく細い山道がはっきりと見て取れた。そこから約30分以上,曲がりくねった歩きにくい道を上がっていった。わずかばかりであったが、道の傍らには残雪があちこちにあった。
 頂上に近づいて来た事を思わせるように、次第に道幅も広がり、一種の神域の境界ともいえる数十センチメートル大の石が両脇に置かれているところがあった。しばらくすると、相当に乱れて来てはいるが石畳状とみなしてもよいような道が百メートルほど続いて、石の鳥居が現れた。その先は平地となり、石垣のうえに小さな拝殿が立っていた。本殿は存在しない。目的の磐座は、拝殿に隠れて見えない。
 御神体である古さびた磐座は、拝殿真裏の石垣の上に造られた玉垣の中で、注連縄を巻かれて鎮座していた。それほど巨大なものではなく、人の背丈ほどである。祭壇状の岩が備わっている。玉垣の中は、いかにも、ずっと昔から祭祀が行われてきた様子を思わせるたたずまいである。樹木が幾本かあり、土瓶が地面に埋められていたり、小さな石碑もあったりする。
 次第に、厳かな雰囲気を感じてくるようになった。ここは、まぎれもなく聖地の一つなのだ。延喜式(延長5年、927年)の神名帳の巻に載っている『麻佐岐神社』である。
備中国の式内社18座のひとつであり、明治40年5月22日に旧秦村の村社となった。ここにも“おがたまのき”が植えられていた。拝殿に説明板があり、祭神は大国主神(岡山県神社誌では大國魂神)で、祭日は5月11日(岡山県神社誌には例祭7月12日)とあった。
 鳥居の方を振り返ると、総社平野が一望出来、福山とそれに連なる山々も鮮やかに眺められる。石畳の道、鳥居、拝殿と連なる線は東向きである。太陽が昇ってくる方向に向いている。古代の人々は、ここで、どのような祈りを捧げたことであろうか。
 拝殿に、今年になって新調された記帳用のノートがつり下がっていた。記帳するため開いてみると私の順番は31番目であった。(なお、3月2日に参拝した時は、73番目であった)記帳しているのは皆、秦地区の人で、10数家族が元日と2日の午前中に参拝に来ていたことになる。
 しばらくしてると、数人のある一家族が来られた。大野の人で、糸島玉夫(83歳)さんといわれる一家であった。大野の方からは、車で頂上まで来ることが出来るとのことである。玉夫さんから拝殿に置いてあった一升瓶に入った御神酒を勧められた。また、正木山が秦地区の所有になっていることや、数十年前に拝殿の屋根を藁から葺き替えた話、年末の参拝道の手入れ、頂から南面のすぐ下に別の磐座らしきものがあることなど教えてもらった。
 ところで、昨年12月8日(土)、予め約束をして宮司の小橋学氏のお宅を訪問した。
ウエルサンピア岡山のプールの奥にご自宅があるとのことなので出かけた。まず目に入って来たのが、『古代吉備乃国発祥乃地』と書いた数メートルはあろうかという手作りらしい大きな塔であり、驚かされた。その周辺は歌碑や磐座等が配置された広い庭となっていた。あたり一面に聖域の雰囲気がただよっていた。しかし、ご自宅は洋風のモダンな建物であった。
 先代の宮司小橋光一氏は、学氏の父親にあたられ、十二代目であったとのことであるが、数年前に亡くなられていた。秦地区及び周辺の多くの神社の宮司を勤められて、それぞれの整備と祭祀行事等に尽力されて、地元住民から大変尊敬されていた方のようである。また、磐座を熱心に研究されておられたようである。生前にお会いできなかったのが残念である。
 光一氏が蒐集された磐座等の史料の展示室があるとのことで、拝見させていただいた。学氏は、後を継いでからまだ日が浅く、いまだ、この史料の整理に当たっておられないとのことで、内容の説明は十分にはしかねるとのことだった。ただ、頂上の磐座を取り囲んだストーンサークル的な石の配列が確認されている図面等を拝見した。また、いつ頃のものなのか、“まさきやま”についての古い和歌集も見せて頂いたが、草書体のため、判読できないのが残念であった。
 史料展示室には、書籍も幾冊かあったが、その一つに、前回紹介させて頂いた佐藤光範氏の磐座の本もあった。二人の交流があったことが推測できる。
 少し長くなるが、その本の中から、『秦』と『正木山』と『磐座』に関連した部分を引用させていただく。
 「『マサキ』とは何か?○○キの『キ』は祭祀の場所を示す『キ』です。『マサ』は麓の秦部落を意味しています。京都に映画村で有名な太秦があります。ウズマサと読みます。曾て秦氏の居住地としていた所です。秦の事を『マサ』ともいっていた証拠がここに残っています。(まだその意味は不明です)ハタ族(マサ族)は道教を信仰していたから、道教の秦の始皇帝に因んで『秦』の字を使ったのです。京都の秦族も伏見の磐座を祭祀していました。ここ総社でも正木山の東の登山口にいた秦族は、裏山の『磐座』を祭祀していたのです。むしろここの山に立派な『磐座』があったから、麓に秦族が居を構えたというのが正解でしょう。
 更に面白いことには、ここ総社の秦族は高梁川側で白鳳時代の『秦廃寺』を持ち、岡山市の旭川側の幡多族は操山西端に正木山を持ち川沿いに、白鳳時代の『幡多廃寺』を持っている事です。そして、このハタ氏族が、二グループの真中の距離にある『磐座』岡山市高松の龍王山に、出身地の京都伏見の自分達の守神『稲荷様』を招聘している事です」
 次回は、一回目に、写真で見て頂いている『石畳神社の磐座』を取り上げたい。これも、秦族が関わるものである。『秦氏』についての、詳しい解説とともに、秦地区の各部落にある氏神や、秦廃寺、古墳、三角縁神獣鏡、銅の鉱山等についても、関連させながら触れてみたい。
 最後に、このたび正木山に行くつど、心が大変に痛んだことがあったことをお伝えしておきたい。それは、とんでもないほどの松枯れの状況である。松枯れでは、里の私どもの家の近辺においても、近年、大切な庭の松を枯らして残念がっておられる方が多い。
 しかし、正木山の松枯れの、あまりの惨状に声も出なかった。立木のまま、切り倒されたまま、また自然に倒れた状態の、赤くなってしまった沢山の松が放置されている姿か痛々しい。私たち人間の健康な生活の維持にとって、身近かな山々が、切っても切れない大切な関係をもっているのに、どちらかといえば顧みられなくなっていることへの悲痛な叫びとも思いたい。みんな、もっと山に入って、自然と一体になった人の本来の生活といったものを考えてみようではありませんか。磐座へ関心を寄せることが、その、ひとつの入り口になるのではないだろうか。

                                終わり
                               
                                        平成20年2月18日脱稿

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2007年5月 1日 (火)

巨石巡礼記(1-3)~奈良県山添村~

            巨石巡礼記(1-3)
                                ~奈良県山添村~

   山添村の巨石巡礼記の最終回であるが、それに入る前に、4月21~22日のイワクラ学会全国大会2007~イワクラサミットin豊田~に、行ってきたことを報告しておきたい。実行委員長の中根洋治氏を中心とした関係者の、心のこもった準備が伺える内容であった。初日には佐藤光範氏のまとまった話が聞けたのも嬉しかった。二日目の現地視察は3台のマイクロバスに分乗しての豊田市内の巨石視察であったが、十分に堪能した。これについては、いずれ巨石巡礼記(2)としてまとめてみたい。“足助”という町を初めて知ったのも、大きな収穫であった。また、『続巨石信仰』が入手出来たのもよかった。それでは、以下、山添村の巨石巡礼記の最終回に入っていきたい。

 目的を達したので、森林科学館まで帰って、中にあった、喫茶コーナーで冷たい飲み物を飲みながら、バスの出発まで待つことにしたが、この間、佐藤氏に、著書のこと等様々なお尋ねをした。そして、長い間、毎月一回「星と太陽の会」という名で、県内を中心に磐座巡りをされておられることを知り、仲間に加えていただくことにした。
 そのうち、奥谷氏や山添村長窪田剛久氏も来られたので、山添村のことについていろいろとお話を伺った。豊かな自然と長い歴史を有する山添村の方々の、地域への愛着と誇り、自立心、おおらかな人間性を感じた。
 空もかなり暗くなり、今日の宿泊場所へ行く時間となったので、ライトアップされて「天の川」を思わせる幻想的な情景となっている鍋倉渓を楽しんだ後、山添村遅瀬の名阪国道五月橋IC横にあるペンション「アートスコープはかた」まで、約二十数分車中の人となった。途中、山間を通ってのことなので、全くの闇の中であった。

 八時を過ぎての、遅い夕食となり、そこで初めてお互いの自己紹介があった。そして、食事しながら、夜遅くまで「磐座」談義に花が咲いた。「鍋倉渓」の岩群に人の手が加わっているかどうかで、対立した意見交換もあり楽しかった。また、「鍋倉渓」類似の景観が、広島にもあるとの情報が、広島から来られた女性から寄せられた。一度、行って見たいものだと、強く思った。近年、早寝の習慣となっている私は、一足先に寝ることにしたが、国道の騒音が耳について寝苦しかった。朝も、食事後、昨夜に引き続き、話がはずんだ。佐藤氏が、磐座に関連させて「秦氏」、「物部氏」、「銅の生産」、「神社の系譜」等について、いろいろと該博な知識をもとにした意見を、述べられたのだが、悲しいかな、基礎知識のない私には、ついていけない話が多かった。その後、たまたま、以前購入していたが未読のままの谷川建一の「白鳥伝説」、「青銅の神の足跡」のページをめくっていて、佐藤氏の話の理解がやや進んだように思った。その後、関連の本の収集が始まった。

 二日目の最初は、宿泊場所から遠くない中峰山の磐座群巡りであった。山というよりも起伏の多い、やや平地よりは小高くなった森といった感じであった。今回のツアーの一つの目玉ということであった。配布資料中の説明は以下の通りである。「山中のため案内がないと道に迷いかねない場所にありますが、イワクラの多様さでは村内随一。ギリシャ神話のアルゴー船のような舟岩、地蔵岩、球体石である手毬岩、UFO岩、太陽観測に使われたと思われる天狗岩、一対の男根石と女陰石、巨大な八畳岩、大神岩、その他名もない巨石、巨岩がゴロゴロあります」
 三時間近く、山中を歩き回り、実に多くの岩を見た。最近になって、『山添村いわくら文化研究会』で、命名した岩もあり、まだ名前のついてない岩もあった。ここでも、最高齢と思われる佐藤氏が、いつも先頭で隅々まで調査され、ノートにメモされておられた姿が印象的であった。。その、研究熱心さとお元気なご様子に本当に驚いた。佐藤氏によれば、これらの岩が、磐座であったかどうかは、祭祀跡を確認する必要があるが、周辺を発掘調査すれば別だが、表面的には何もその痕跡が見つからないとのことであった。ただ、中峰山入り口付近にある舟岩は、今回、繁った草に覆われていて、はっきりとは確認できなかったが、祭祀のあった事実が明らかであるようだ。ともかく、今後、二度とくることは出来ないだろうと思われる貴重な経験をさせてもらった。

 次に訪れたのは、中峰山地区内にある村内随一の社格を有するといわれる広い境内と立派な建物からなる「神波多神社」だった。小高い山か丘のような高い所にあり、見上げるような石段が続いていた。さすがに、皆、疲れており登るのをあきらめる人もいた。以下、ホームページ『山添村の聖石群』の中の、記載を引用する。
 「神波多神社は山添村の中峰山地区の鎮守であるばかりでなく、村全体でも『波多の天王さん』として崇敬を集めている神社です。『天王さん』とは牛頭天王のこと。神波多神社の主祭神である素戔嗚命は牛頭天王と同神とされています。山添村では牛頭天王信仰が盛んですが、まさにその中心を担う施設といっても差し支えないでしょう。
 神社の創建年代は不詳ですが、『延喜式神名帳』に記載のある古社で、有力な説によると『延喜式』臨時祭のとき、畿内の境10ヶ所に祀った疫神のうち、大和国と伊賀国の境に祀られた疫神であるといわれています。牛頭天王はインドの疫神ですから、その牛頭天王を祀る神波多神社が大和国と伊賀国の境に祀られた疫神であることは確かなことと思います。よって神波多神社は、推測するに律令国家建設後に、畿内を護る疫神鎮座施設として設けられたものだと推測されるわけです。
 しかし神社を設けようとした場所とは、その昔から聖域としてみなされていた所が選ばれることが多いようであり、当地もその痕跡として『鏡石』の存在が報告されています」
 残念ながら、「鏡石」を見ることは出来なかった。佐藤氏は、「秦氏」との関連を指摘されておられた。

 昼食を宿泊した「アートスコープはかた」でとり、十分に休息してから、まずは近くの「遅瀬の鏡石」と「遅瀬の亀石」を見に行った。そして、いよいよ、今回のツアーの最終地となる地点に向かって、バスに乗って行った。村のほぼ中心地あたりである。現在、山添村のイワクラのシンボル的存在となっている『長寿岩』である。「山添村イワクラMAP」には、次のように書いている。「直径7メートルのみごとな球体、推定重量約600トン。注目すべき点、それは赤道、子午線とおぼしき謎の『十字ベルト』がある」
 しかし、この岩は、平成七年に、「ふるさとホール」、「保健福祉センター」、「花香房(はなこうぼう)」からなる「ふるさとセンター」建設のために、丘を切り開いているときに出てきたもので、あった位置も置かれていた姿も、元の状態とは違っているのである。建設の邪魔になるとのことで、当初、爆破してしまう予定であったが、費用がかかりすぎると言うことで残されたそうである。それが、現在山添村の最も知られた観光名所となっているのである。
 皆さん、一角の産直センターや温室、花壇、遊歩道等がある約1ヘクタールの広さの「花香房(はなこうぼう)」で、大和茶等の農産物や、添加物を使ってない自然食品を、それぞれ購入して、一路、近鉄奈良駅に向かって帰ることとなった。帰り道は、月ヶ瀬街道で、途中、見事な家並みが見える柳生の里を通り抜けていった。

 今回、見学したイワクラは、山添村のイワクラの一部である。その全貌に接してみたい方には、ホームページ『岩石祭祀提唱地』のなかにある、先に紹介した「山添村の聖石群」や、その総論となる「山添村の聖石文化」に、ぜひアクセスしていただきたい。圧倒されるような内容である。さらに、自称「なぞのアーテイスト『滝澤祐一』」のホームページ『Vocation』の中にある、「『滝澤祐一』的歴史探訪・謎解きのたび」中の、“「イワクラ」の謎に迫る 奈良県山添村「イワクラ」探訪記”をご覧いただきたい。

 様々な人や、自然と文化に出会えた充実した2日間であった。やはり行って良かった。 これからは、書斎にばかり閉じこもらずに、もっともっと旅に出よう。(終わり)

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2007年4月10日 (火)

巨石巡礼(1-2)~奈良県山添村~

                  巨石巡礼記(1-2)
                                ~奈良県山添村~
                                       

 「六所神社」見学の後は、バスにかなりの時間揺られて、山添村の北東部に向かって行った。まずは、役場のある村の中心部周辺の下津地区(下西波多ともいう)にある「吉備津神社」を視察した。岡山の吉備津神社を分社したものであり、親近感が増してきた。
 山添村史に「当社は一大巨岩をご神体とし、拝殿はあるが、社殿はない。我が国神社の原始形態そのままを遺す神社で、古代人の自然崇拝の跡を伝えるものである」とあり、神社背後に近接して高さ約6m、幅約10mの立石状の巨岩があるが、容易には近づくことは出来ない。
 吉備津神社は端山の山麓にあるのだが、ホームページ『山添村の聖石群』によると、山添村では、各地で“山之神信仰”が見られ、木製祭具を供える祭祀儀礼が今でも残っているとのことで、同じような『山之神石碑』が各地に建てられているとのことである。端山では山腹にあるらしい。また、吉備津神社周辺には、北西に稲荷山があったり、たたり山といわれる山もあるそうだ。全体に犯してはならない聖なる地域となっているようである。

 吉備津神社の次は、村のより東部にあたる吉田地区の小字で岩尾というところにある「岩尾神社」に行った。村史の記載に、「当社は我が国神社の原始形態を遺存するもので、巨大大石がご神体である。古代人の大自然に対する畏敬から生じた信仰の表徴である」とあり、社殿裏にある二つの巨石は尋常ならざる大きさであり、圧倒的な威力を感じる。社殿から見て、左が『長持石』、右が『つづら石』とも称されているとのことである。近づいて、直接岩に触れることが出来た。
 前記のホームページ『山添村の聖石群』によれば、「社殿の右手前にも、2体の半球状の岩石が残っています。向かって左側が『鏡台』、右側が『ハサミ』とされています。他にも、神が休憩の際に水を飲んだという『石の水鉢』、『箪笥(タンス)石』、『葛石』などが残っているように、この神社に存在する全ての聖石は、集落の伝える『婿入り伝説』に基づくネーミングです。(中略)ところで、岩尾神社では『石売り行事』という奇祭があるそうです。内容はというと、16歳以下の少年が川原で拾った小石を参拝者が買い求め、その小石を神前に備えるという儀礼です。石を媒体にしている点、興味深い岩石祭祀事例の1つとして考えていきたいと思います」とあるように、『岩』の名の付く神社には、その土地の人々に、石に対する畏敬の心をさまざまな形で伝え残してきているようである。これらの文化は、私が住む地域にもあるはずであり、廃れさすことなく、継承していかなければならないとの思いが大いに高まった次第である。

 神社の発生に、いわくら(磐座)が密接に関係していることを、まざまざと実見して納得し、一日目の最後の見学先である、神野山の中腹にある森林科学館前広場で行われる「七夕のつどいin鍋倉」に向かったが、途中春日小学校旧講堂を活用した「山添村歴史民族資料館」を見学し、縄文時代草創期(今から12000年前)の遺跡からの発掘品等を見て、この地に人が住み始めてからの悠久の時の流れをに思いを馳せた。
 さらに、途中の道路脇にあった、菅生地区の「三枚岩」にも立ち寄った。一度みると妙にあとあとまで印象に残る形である。ごくちいさな丘の上に板状の立石が3枚重なり合ってたっている。由来等余りしっかりしたものはないようであるが、小さな祠はあるので、聖域であることには違いないようである。
 五時半頃から始まった「七夕のつどいin鍋倉」の主催者代表を奥谷氏が務めているらしく、開会あいさつをされたり、いそがしそうであった。コンサートや子どもたちによる民話、星空観察が行われ、いろいろの食べ物も売られていた。七時半まで自由行動ということになっていたので、わたしは、ひとりで、森林科学館からは少し離れたところにある「鍋倉渓」に向かって散策することとした。途中、道沿いに石造物である「塩瀬地蔵」や磐座と思われる「大師の硯石」があった。
   「鍋倉渓」についての山添村のホームページの記載は次のようである。「山の東北の中腹には、大小の黒々とした岩石がるいるいと重なりあい、幅10m、長さ650m余りにわたって溶岩のながれを思わせる奇勝『鍋倉渓』がある。この黒い岩石は角閃斑糲岩(かくせんはんれいがん)と呼ばれ地形、地質学上、他に類を見ない珍しい景観をなしている」確かに、何とも言いようのない感動が沸いてきた。
 沢山の人が、ライトアップにむけて、太陽電池による発光灯を、鍋倉渓の全域に設置している最中であった。耳を澄ますと、水音がしており、石の下をかなりの水量の水が流れているらしい。
 鍋倉渓に沿って作られている山の斜面の歩道を、上に登っていったが、足も疲れてきたので、途中で引き返して帰ろうとしたとき、下の方から上がってくる人影が見えた。今回のツアー参加者の一人であった。その方の言によれば、鍋倉渓の上端に磐座があるらしいということで、登り切ることの誘いを受けたのでご一緒した。私よりはるかにご高齢のようだが、足取りは軽くどんどん登って行かれる。そして、歩きながら磐座にまつわる様々な話をしてくださる。
 この方が、岡山から来られている『佐藤光範』氏であった。奇遇であった。「愛知発、巨石信仰」で取り上げた、平成十一年の三月に岡山市内のある古書店で手に入れた「古代祭祀跡 吉備の磐座」の著者である。
 とうとう、鍋倉渓の上端にあった「天狗岩」まで、たどり着いたのであるが、佐藤氏は、祭祀跡の痕跡等について、それはそれは丹念に岩の周囲を歩かれて調査された。ところで、鍋倉渓周辺には、この天狗岩をはじめ、八畳岩、竜王岩、王塚等があるらしいが、先に紹介した柳原輝明氏は、これらが天の川の主要な星々に対応しているのではないかとの仮説を出されている。鍋倉渓は、一見、天の川のような形にも見えるのである。さらに神野山の他地区にある磐座群も重要な天の星に照応し、あたかも神野山は天球のようになっているとの説を述べておられる(『神野山と天空の星』“イワクラ~巨星の声を聞け~”イワクラ(磐座)学会・編著 遊絲社所収)。古代のロマンが感じられる。
                                               (次回に続く)

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2007年4月 5日 (木)

巨石巡礼(1-1)~奈良県山添村~

          巨石巡礼記(1-1) ~奈良県山添村~                              

 一昨年末、インターネットで、『石』に関するホームページを検索中に、たまたま「イワクラ(磐座)学会」のあることを知った。入会申し込みをしたのは、昨年7月3日である。早速、入会の了承通知と、少し経ってからツアーの案内のはがきが届いた。

 しばらく行くかどうか思案したが、書斎に閉じこもるだけでなく、新たな世界へ一歩踏み出すのも良いことではないかと思い直して、締め切りの日、電話で参加申し込みをした。 8月5日(土)午後1時、近鉄奈良駅近くの商工会議所前が集合場所であった。駅の地下で、おいしかった和食の昼食を済ませ、地上に出たが、焼けつくような陽射しであった。近くに興福寺があるらしかったが、時間もなく見学はできなかった。さすがに観光地奈良だけあって、たくさんの観光客で賑わっていた。

 わたしが最初に到着したが、次第に参加者らしい人が集まってきた。そして、定刻頃に、今回の世話人である山添村いわくら文化研究会会長の奥谷和夫氏(村議)が仕立てた山添村からのマイクロバスがやってきた。 総勢12名(男11名、女1名)によるツアーとなった。後からわかったことであるが、東は神奈川県、西は広島県からの参加があり、岡山県からは私を含め3名であった。

 最初、資料をもとに奥谷氏から、手短なツアーの趣旨と日程の説明があったが、あとは隣り合わせの人との会話を楽しみながらの旅となった。バスの最後部に座った私の隣は、神奈川県からの40歳前後と思われる歴史に詳しい男性であった。相当に、全国の巨石巡りをされているように思えた。

 バスは木々の繁る細い山道を数十分曲がりくねりながら進み、山添村に入っていった。  古くは東大寺領だったといわれる山添村は、昭和31年に東山村、波多野村、豊原村の三村合併で出来た村であるが、近年の全国的な市町村の合併ブームの中で、近隣の町村が奈良市等と合併する中で、住民投票によって、今後とも自立の村づくりを進めていくことを選択した村である。奈良県の北東部、三重県との県境に接し、人口約4600人、面積66平方キロメートルで、周辺は奈良市、宇陀市、伊賀市、名張市に囲まれている。村の中央を名阪国道(国道25号線)が通り、大阪まで約1時間、名古屋まで1時間半の距離にある。 村内には、神野山(標高約六百十八メートル)、茶臼山(約五百三十五メートル)、高塚山(約五百七メートル)という3つの代表的な山がある。他にも多くの山々があり、村は、全体的に山間の多数の集落からなっているようで、広々とした平地は、ほとんどみられず、あちらこちらにある山または丘の斜面を利用した茶畑の多さに驚いた。そして、それが茶畑特有のおだやかで美しい景観を呈し、村の風景を至極好ましいものとしていた。とれた茶は、宇治茶にも原材料を提供しているようだが、多くは高級な大和茶となっているとのことである。 

 ところで、山添村では、「いわくら文化」再興を通じて、ひとつの村おこしをしているようにも感じられたのであるが、この、きっかけを作ったのは、現在「イワクラ(磐座)学会」の専務理事をされておられる都市計画家柳原輝明氏が、山添村の村づくりの基本となる総合計画に関わりをもたれたことにあるようだ。

 氏の略歴を記した一文につぎのような一節がある。「総合計画策定のおり、村内に点在する巨石に惹かれる。特に神野山に存在する巨石群と天空の星との相関関係を偶然発見し、イワクラ研究にのめりこむ(『イワクラ~巨石の声を聞け~ イワクラ(磐座)学会・編著 遊絲社』より)」 

 山添村では、以前平成15年11月22日から24日にかけて、第四回イワクラサミットが開催されたのであるが、ふるさとセンターのホールに立ち見が出来るほどの参加者で500名を超える人々が全国各地からやってきたということだ。当日のことはホームページ「イワクラ学会関連情報」や「磐座みい~つけた新聞」等で詳細を知ることが出来る。 

  ここで、すこし、イワクラ(磐座)学会の沿革に触れておきたい。イワクラサミットは、平成11年に岐阜県山岡町で第一回がもたれ、平成12年第二回を高知県土佐清水市、平成13年第三回は福島県飯野町で開催されている。4回のサミットを経て、平成16年5月に『イワクラを世に広め、古代の民族遺産であるという認識を得るために、さらには世界の共通語としていくための活動をする目的』で、奈良県新公会堂で400名の参加者を得てイワクラ(磐座)学会創立記念大会が開かれ、昨年は、7月16~17日に宮崎県立西都原考古博物館で総会が行われた。本年の総会は、三重県鳥羽市で5月27~28日に開催されている。

 さて、山添村のイワクラ(磐座)についてであるが、ホームページ『山添村いわくら文化研究会』に大字名・名称・写真・解説・備考という整理の仕方で、紹介されているのでご覧いただきたい。 山添村の磐座については、他のホームページ(『山添村の聖石群』)に、さらに詳細な報告がある。

 いよいよ、今回のツアーに入っていきたい。平成15年のサミットの2日目と3日目に行われた現地視察の対象地とできるだけ重ならないような配慮をし、①イワクラと神社の発生、②中峰山のイワクラ群,③神野山と鍋倉渓のライトアップの3点に主眼を置いたコースを計画したとのことであった。 まず、最初に訪れたのは、「天王の森」で、奈良市から山添村に入って、まもなくのところにあった。山添村の西端を流れる布目川につくられた布目ダムの上流の端に位置し、ちょうど橋のたもとにあった。約20メートル位の小山で、ダムもなく橋も作られていない時代には、頂上部にある数個の巨岩を川沿いの道から仰ぎ見るような形になっていたはずであり、信仰の対象として威厳もあったであろうが、現在は、頂上がほぼ橋の高さと同じになってしまい、山も一部が橋の橋梁部分に取り込まれているようで、景観が大きく損なわれてしまっていた。 配布資料には、「山添村史」の中にある以下のような一節が紹介されていた。「一種の巨岩崇拝と考えられ、山頂の巨石群に牛頭天王を勧請したので天王の森と呼ばれ、古くから神聖禁忌の地である」山添村には、各地に、牛頭天王を祭る場所があるらしい。

 次に行ったのは、「水神の森」で、先ほどの橋を逆戻りに歩いて渡り、布目川沿いを数十メートル上流に行った所である。同じく配布資料に「村史」の、その箇所を抜粋して載せてくれていた。 「布目川の中にあり、原生林に覆われた周囲100メートルの島である。下流には八丈岩と称する約17メートルの自然石による遙拝所がある。(中略)地域を水害から守るため水鎮の神として祭祀されたもので、近郊の信仰を集めており、毎年一回(7月)水神さん祭りが催され、近郷住民の憩いの場となる」 残念ながら、あたり一面大きな岩がゴロゴロしており、八丈岩を確認する所まで近づくことができなかったし、周囲の明確な島というような感じを抱くことも出来なかった。ただ川の中に、鬱蒼とした森はあったが、周囲の山と渾然一体となっているようにも見えた。

 次に向かったのは「六所神社」であるが、バスで、曲がりくねりながら非常に細い山道を登っていった。六所神社も、先の天王の森や水神の森と同じ大字峰寺地内である。六所神社は、氏神山を背後にかかえ、本殿が磐座(いわくら)と思われる巨石の上に建てられているのが特徴で、『延喜式』の天乃石吸神社ではないだろうかとも言われている。神社の成り立ちが納得できる形式である。境内には、磨崖仏の「毘沙門天像」や「不動明王」、「お百度石」「金毘羅碑」「行者石像」「観音石仏」「地蔵石仏」などの多数の石造物があるらしい。「山添村史」の内容は以下の通りである。「昔、神の降臨された巨岩をご神体としたが、後世その上に社殿を造営したといわれる。(中略)境内には、牛頭天王を祭る杵築神社、弁財天を祭る宗像神社、戎子大明神を祭る恵比寿神社などがある。巨岩に刻みつけられた不動明王像(建武5年=1338)は村指定文化財である」 (次回に続く)

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2007年4月 1日 (日)

再 開

再 開

 3番目の孫との、夢のような楽しい1年間が過ぎた。数日前から、また独り暮らしとなった。長男の勤務の都合で、彼らは、隣接する市に移り住まざるを得なくなったためである。

 大変、寂しくなったが、時間だけは、たっぷりと生まれた。これから、2年後の定年に備えて、仕事のまとめをするとともに、定年後の人生設計をしっかりと進めたい。その前に、5年前に亡くなった妻の思いで集を、早く本にしなければならない。
  本年の最大の楽しみは、現在、宅地の一角に建設中の書庫への、これまでに収集した本の大移動である。「石想文庫」の看板を架けようようかなどと考えている。年末までに、すこしずつ移していきたい。

   ところで、昨年は、7月に『イワクラ(磐座)学会』に、思い切って加入したことが契機となって、『巨石巡礼』の機会が増えた。このことについては、このブログで、これから順次、紹介していきたい。
 以前、『愛知発、巨石信仰』という本を紹介したことがあるが、今月4月21日~22日に、この本の作者等が中心となって、「イワクラ(磐座)学会全国大会2007~イワクラサミットin豊田」が行われる。初日は、豊田産業文化センターで「巨石文化研究発表会」が開催され、2日目は豊田市と周辺の巨石をマイクロバスで見学する。
   私は、早速に参加申し込みを行ったところである。待ち遠しくてならない。

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2006年4月15日 (土)

記事中断

 2月はじめから、孫との同居がはじまり、

朝晩、忙しく楽しい日々が続いているため記事を続けることができません。

 7月から、再開したいと思いますので、それまでお待ち下さい。

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2006年1月26日 (木)

『川原の石(2)』

 『川原の石』を続けていきたい。
 
 幼児期、
川原の方面は未知なる奥地であったが、
小学・中学生時代は
自然の楽園となった。
 そして、
受験勉強の重圧に敗れそうになった高校生活においては、
孤独を癒してくれる場所であり、
異郷で過ごした大学生の間は、
ふる里を象徴するところとなった。
 卒業後、
地元に帰って、
社会人となり結婚して子供をもうけてからは、
親子のよきふれあいの場と変わった。
 現在は、
すべての子供が自立してしまい、
自分自身の
人生観、
世界観、
宇宙観の立脚点としての
豊穰な場所に育てあげたいとの想いが
年と共に強まってきている。
 
 子供時代、
河川敷はほとんど石ころだらけの川原といってもよいような状態だった。
当時、
夏の水泳といえば、
まだプールなど無い時なので、
高梁川によく泳ぎにいったが、
一息いれるため川からでて、
川原に上がったときの、
太陽に熱せられて焼けたようになった石ころの、
素足に感じた灼熱感が強烈に体いっぱいに刻まれている。
 熱くて熱くて、
足の裏を出来るだけ縮め膝を曲げて、
しかも早足で動き回らないと、
とても一所にはとどまれなかった。
一目散に草むらに駆けこんで、
座り込み疲れを癒しては、
繰り返し水の中に入って泳ぎ、
疲労困憊してから、
川原の石を踏み踏み家路に帰っていく姿が目に浮かんでくる。
 今から考えると急流も深みもある高梁川で、
本当に子供らだけでよくも、
泳ぎに行っていたものだ。
また、
友達との、
“水きり”という石投げ競争を盛んに行った。
平べったい手ごろな石ころをさがして、
水面との微妙な角度で投げ、
石が沈まず何度飛び跳ねていくか、
技を競いあった思い出も遠い昔のことになった。
 物の豊かさとは全く縁の無かった時代、
身近な川原という自然が子供に楽園を提供してくれていた。

 一方、その頃、
すべてを失って、
外地から引き揚げてきた祖父母や父母たちの苦労は、
子供心にもなにとはなく伝わってきていた。
 家だけは、
曾祖父がひとり、
先祖伝来のこの土地で守ってくれていたおかげで困らなかったが、
8人の大家族で
内3人の子供を育て上げることは大変なことだったにちがいない。
 皆が、
寡黙に、
朝から夜遅くまで、
それぞれの役割を懸命に果たして働いているのがよくわかった。
食べ物だけは、
自給自足に近い形に出来るよう、
親類から田畑を借りたり、
その上、
川原を開墾し畑にしていた。
 砂と石ころだらけの土地を耕して、
野菜作りをしていくことは、
慣れて無い仕事でもあり厳しい労働であったに違いない。
私たち子供は、
無邪気に芋などの野菜の収穫や石ころを掘り出すのを手伝ったり、
作業の合間には、
川原の石と雑草の中の雲雀の巣さがしや、
いろいろな昆虫やかれんな野草を見つけることに夢中になった。
夢幻のかなたの追憶である。

 さて、
現在の川原はすでに述べたように、
昔に比べると、
まことに小さくなってしまったが、
それでもまだ少しは残っている。
そして、
この場に“宇宙”を見ることが出来るようになったことについて、
最後に書いて見たい。
 季節の節目節目に、
川原に出かけていくと、
その石ころ群の間にどっかりと尻餅をついて、
石達との距離を小さくし、
ゆっくりと時間をかけて、
周囲の石達に目を凝らしていると、
形・大きさ・色・模様・重さ・肌触りなどから
一つとして同じものはない石達が、
この狭い場所に無限に存在する重みが迫ってくる。
 見えている表面だけでなく、
どこまで続くかわからない
暗い地下にじっとしている
石ころにも想いを廻らすと
宇宙的無限を感じる。
 まして、いまある姿になるためには、
気の遠くなるような時が経過しているわけである。
石ひとつを、
ひとつの星になぞらえてみれば、
まさしくこの川原は広がりつつある岩石群という宇宙の一部である。
 「石ころから覗く地球誌(小出良幸著 NTT出版刊)」
という本があるが、
そこでは、
長い長い時間をかけて上流から運ばれてきた
丸い石ころの履歴書を明らかにし、
故郷を探していく道筋をわかりやすく解説している。
さらに、
大地をつくる元素や地球の構造、
太陽系の始まり、
星の始まりなどの話に及んでいて、
石ころから壮大な宇宙的気分を味あわせてくれる。
 
 もうひとつ
「かわらの小石の図鑑〜日本列島の生い立ちを考える〜
(千葉とき子・斎藤靖二著 東海大学出版刊)」
という図版の非常に美しい本があるが、
三本の川(荒川・多摩川・相模川)の代表的な小石を写真で紹介し、
その性状について解説を加えている。
分析的な石の科学の深みに入っていこうという気持ちは毛頭ないが、
石と親しくなるためには、
名前程度は知っておきたい。
しかしこれが、
石においては意外に難しい。
川原の石は、
一見するだけでは、個性もなく皆似たようなところがある。
 ところが、
この本は、
取り上げている石の種類の適度さと写真の鮮明さ、
説明文の
わかりやすさで、
何となく同じ日本の川の仲間である
高梁川の石ころの多くについても、
その生い立ちを示す名称が分かってきたような気持ちにさせ、
石ころ星雲への親近感を増してくれる。
 
 「岡山県地学のガイド」の“まえがき”の冒頭に
「岡山県には、
古生代から新生代までのいろいろな時代の地層や各種の火成岩体、
あるいは変成岩類がきわめて豊富に分布しており、
昔から地学のメッカといわれ、
多くの学者や研究者が訪れています。・・・・・」と書かれているが、
中でも、
高梁川上流には
鐘乳洞と渓谷美の石灰岩台地や
世界的に有名な成羽の化石産出地帯はじめ
面白い多様な地質がみられる。
 そこの母岩等から分かれて長い時を経て、
流れ流れて下流の川原に集まっている小石達から、
流域全体はいうに及ばず、
地球の成り立ちや
宇宙の本質についてまで想いに耽ることが出来るのは、
なんと幸せなことではないだろうか。
 さらに、
特定の空の星が
自分に向けて
メッセージを投げかけてくれているように思えるときがあるように、
川原の石ころも、
よくみつめていると、
そのなかの一つが
私にとって特別な存在となる出会いに遭遇することがある。
 
 地球は、
大宇宙の無数の星のひとつで、
極めて単純化していえば、
巨大な母岩を核にして、
それから派生してきた岩石群や宇宙からの隕石の集合体であり、
そのうえに、
そこから発生した水や大気、
生物が付属しているといえる。
 そして一人一人の人は、
地球の上の極微な存在だが、
逆に大宇宙の中では、
地球も微塵にすぎないとみなせる想像力があり、
又、
一個の川原の石ころから
宇宙の生成をも夢想することができる力を持っている。
 私は、
遠くない将来やってくる老後の安心立命に向けて、
これからも私の川原で石を積みながら、
そこを
豊穰な
地球大的・宇宙大的空間のイメージへと
膨らませていきたいと思っている。
 いずれ、
果てしない生物の生と死は勿論、
星々の誕生と死をも一切を飲み込む込んでしまう限りない宇宙と、
私自身が
一体であることを
確かに信じることが出来るようになれるかもしれない。
                 
 

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2006年1月25日 (水)

『川原の石(1)』

 川原には、多くの人を惹きつける
心のふる里としての形容しがたい魅力がある。
 
 これは、自然への素朴な本能的欲求と、
幼い時からの、
さまざまな生活体験上の
悲喜こもごもの思い出の集積による、
人それぞれの
川原に対する
熱い想いがないまぜあって形づくられているに違いない。
 
 そして、
人は、
時々、
思い出したように、
手近な川原に足を向けていく。
 
 街が人工的に、
すこぶる乱雑に都市化を進めている中で、
一日のほとんどを
社会的人間として忙しく働き続け、
また終日、
自然から遮断された生活で
息苦しくなって、
生き物としての自分自身を、
本能的に取り戻したくなることや、
ありし日、
川原で経験した、
牧歌的ともいえる夢をみることの出来た時代に想いを馳せて、
明日からの生きる力を回復しようとしているのではないだろうか。
 
 ところで、私にとっての『川原』とは、
岡山県内を流れる三大河川のひとつで、
もっとも西側に位置する
高梁川に架かる総社大橋の下、
南北約数百メートルに広がる空間である。
 ここは、
高梁川が、
中国山地の山奥に源を発してから、
延々と吉備高原の間を流れ下ってきて、
始めて総社平野に注ぎ出してきたところ(湛井堰)から、
少しだけ下流の広大な河川敷にある。
 
 ここで、
「岡山県地学のガイド〜地学のガイドシリーズ十一〜(コロナ社刊)」によって、
高梁川の全体像について少しばかり知っておきたい。
 高梁川は、
旭川が壮年の働き盛りで、
吉井川が働き盛りを過ぎた中年であるに反して、
元気なテイーンエージャーであるといわれ、
三つのなかで、最も短く、
延長約百十キロメートル
(ちなみに旭川百四十七キロメートル、吉井川百三十六キロメートル)
であるが、
支流の数は四十四(旭川三十四、吉井川四十三)と
もっとも多くなっている。
 
 そして、ひいき目でなく、
川沿いの景観の変化に富んだ面白さは、
一番ではないだろうか。
また、ほぼ伯備線にそって流れているので、
かなりの景色は汽車の中からでも見学できるのが利点といえる。
 【なお、日本文教出版株式会社の岡山文庫59「高梁川」では、川の延長と四次ま
での支流数は、高梁川百十七キロメートル・八十四本、旭川百五十キロメートル・百
三十二本、吉井川百三十七キロメートル・百九十八本で、人間の年令にたとえた活動
力はそれぞれ三十才台、四十才台、五十才台となっている。そして、高梁川は流域面
積は最も広く、縦断面のうわぞり角度も最も大きいと記されている

 この、私にとっての「川原」の風景が
いまや、
子供時代とは一変してしまっている。
これは、
全国どこの河川敷でもみられる現象ではないかと思われるが、
覆土されて整地がすすみ、
十分すぎるほどの面積をとった、
殺風景で広々した、
グランドができ上がり、
川原の部分が随分と小さくなってしまった。

  休日などには、
沢山の子供たちがサッカーや野球の試合などをして、
にぎやかにしている姿をよくみることが出来る。
 このこと自体は歓迎すべきことであるが、
なつかしい風景に二度と会えないかと思うと
一抹の淋しさを覚える。
 また、遊び仲間でもあった
バッタやキリギリスをはじめとした、
多種多様の昆虫や、ひばり、ツバメなどの野鳥等の
棲息環境をせばめてしまったことにもなる。
いろんな種類の美しく清楚な野草も
生き延びることが困難になったとみえて、
めっきり少なくなった。
ほどほどの開発で止めていただければと願うばかりである。
  
 さて、ここで
“川原”の意味するところについて考えてみたいが、
「川の両岸の、
いつもは水の流れていない砂や石の多い平地
(日本語大辞典 講談社刊)」
という解釈がとりあえず一般的とみなしておきたい。
 ただ、全国各地に散在している
いわゆる『賽(さい)の河原』といわれているところは、
実在の川が流れていないところも多い。
死者供養の聖域となっている『賽の河原』は、
 「・・・彼のみどりごの所作として 
       河原の石をとり集め 
         ここにて回向の塔を組む 
          一重くんでは父のため 
          二重くんでは母のため 
          三重くんではふる里の・・・・・」
というあの哀切きわまりない
「西院の河原(地蔵)和讃」とともにひろまっていったといわれる。
 
 「石の民俗(野本寛一著 雄山閣刊)」によると
    一 火山系で地獄を連想させるような場所
    二 死者が赴くと信じられる山
    三 灯籠流しなどが行われる実際の河原
    四 境意識が高揚され、他界との境を連想させられるよ
      うな峠あるいは峠道
    五 特定寺院の境内
などに場所が分類できるという。
 本当の川は流れていなくとも、
死者の住む他界とこの世(此界)の境界にあって、
穢れをはらうとされる仮想の精進川、
もしくはあの世の三途川が
根っこに想定されているのではないだろうか。
 なお、「石の宗教(五来重著 角川書店刊)」で、
柳田国男の「地名の研究」の中にあげられている、
石のごろごろとした石原に対して
各地に「こうら、こうろ」
あるいは「ごうら、ごうろ」の地名があることを紹介し、
こじつけではあるがとしたうえで、
必ずしも川と関係なくとも
『賽の河原』という呼称が
生まれてきたことを暗示しているのも興味深い。

  ともかく、
ここで欠かせないのは
『積石』のための沢山の石ころがあることである。
五来重氏は、
「石の宗教」の中で、
『積石』は
「仏教的な意味は、“石を積みて塔とする”ということにあるけれども、
日本人の原始信仰なり、
庶民信仰ではすこしちがうのである」とし、
「“あの世”と“この世”の境界に積石をして、
穢れが“あの世(神域)”へ入らないようにする」ことであるといい、
『賽の河原』の『賽』は、
『塞』と考え、
穢れや悪霊をさえぎっているのであると述べている。
 私たちが、神社仏閣はいうに及ばず、
山や川、森や海や洞窟などの自然に接したときなど、
そこに石ころがあれば、
おのずから積んでみたくなる
日本人としての心を大切にしたいものである。

        
 

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2006年1月 3日 (火)

好きな『“石”の詩(5)』~金子みすず~

好きな『“石”の詩(5)』
金子みすず

 あけまして おめでとうございます。
 本年、最初の記事となります。

   昨年12月31日から帰って来ていた、
二人の子供夫婦家族が本日(1月2日)、それぞれ帰って行った。
孫達との楽しいひとときが、沢山の元気をくれた。
 
 急に、静かになった一人だけの家のなかで、
久しぶりに書いてみたくなった。

 明日(1月3日)は、五年ぶりの、
中学校同窓会を幹事として執り行わねばならない。
  これも、
これから一年間の元気の素になればよいがと思っている。

   さて、今回は「金子みすず(明治36年~昭和5年)」についてである。
    矢崎節夫氏の執念のご努力によって、
私たちは、今、“金子みすず”に出会えることとなった。

    「25年永年勤続表彰受賞を記念して購入
~お祝金をもとに~ 平成8年1月29日」
と記した、次の2冊の本が手元にある。
        「童謡詩人 金子みすずの生涯 矢崎節夫著 
          1995年9月14日第7刷    
                     JULA出版局」
      
     「新装版 金子みすず全集
              編集 与田準一、まどみちお、
                 清水たみ子、武鹿悦子、
                 矢崎節夫
        1.美しい町
        2.空のかあさま
        3.さみしい王女
       解説書・金子みすずノート(矢崎節夫) 
      1995年9月27日第17刷     
                 JULA出版局」

   金子みすず(本名テル)の短い生涯と、
矢崎節夫氏による、その発掘の過程は、
どのようなフィクションにも勝る
涙と感動の奇跡に近いような物語である。
 
 西條八十による金子みすず童謡の高い評価とその交流、
作品を託されていた実弟上山正祐とみすずとの関係と
矢崎氏の正祐氏との出会い、
離婚と子供を夫側に手渡さないための手段としての
自殺による満二十六歳の生涯、
金子みすずの一児の現在等々。
 そして、なによりも、一度接すると、
虜になってしまう、みすず詩の力に驚く。
 存在する全ての物や事象・風景等が、皆新鮮に感じられるようになるほど、
見方が一変する。
世界が、生き生きと動き出す。
不思議なこころに満たされるようになる。
そして、豊かな優しい心がよみがえってくるような気持ちがする。

 まずは、矢崎氏が大学1年生の時に出会い、以後の長い金子みすず探索のきっかけとなった、文庫本「日本童謡集 与田準一編 1957年12月20日第1刷 岩波書店」に、1編だけ載っている有名な「大漁」を次に紹介しておきたい。

     朝焼小焼だ
     大漁だ
     大羽鰮(いわし)の
     大漁だ

     浜は祭りの
          ようだけど
          海のなかでは
          何万の
          鰮のとむらい
          するだろう。

 現在、上記2冊の、
金子みすずに関する原典とも言うべき書物に頼らなくても、
多くのみすずについての本が出版されつづけている。
 しかし、この2冊こそが、もっとも重要な書物である。
      
   【以下は1月3日同窓会終了後に、続けて書いた部分である】

  全集には、死を覚悟して、西條八十と実弟上山正祐に、渡された三冊の遺稿手帳に記された512編の詩が収められている。
 この中に、題名に「石」が含まれているものとして、『美しい町』の中の「石ころ」、「濱の石」、「切り石」、『空のかあさま』の中の「空屋敷の石」、「石と種」がある。また、題名には入ってないが、詩本体に“石”の語が入っているものが数編ある。

   以下に、「石ころ」と「濱の石」と「切り石」を引用させていただく。

              「石ころ」

          きのふは子供を
          ころばせて
          けふはお馬を
          つまづかす。
          あしたは誰が
          とほるやら。
         
          田舎のみちの
          石ころは
          赤い夕日にけろりかん。
         
              「濱の石」
         
          濱辺の石は玉のよう、
          みんなまるくてすべっこい
         
          濱辺の石は飛び魚か、
          投げればさっと波を切る。
         
          濱辺の石は唄うたひ、
          波といちにち唄ってる。
         
          ひとつびとつの濱の石
          みんなかはいい石だけど、
         
          濱辺の石は偉い石、
          皆して海をかかへてる。

                「切り石」

           石屋に切られた
          切り石は、
          飛んで街道の
          水たまり。
         
          学校もどりの
          左側、
          はだしの子供よ、
          気をつけな。
         
          切り石や切られて
          おこってる。

  ほとんどの人は、石ころなど歯牙にもかけない。
  しかし、金子みすず的に石ころを見れば、
  いろんな物語が生まれる。
  石ころから、さまざまなことを学ぶことも出来る。
  石ころぐらいしかない殺風景なところでも、退屈することはない。

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2005年12月19日 (月)

林宏著 『鏡岩紀行』

林宏著『鏡岩紀行』

 “巨石”関係の記事を、また投稿してみたくなった。
 
 過日、『愛知発 巨石信仰』について紹介したが、
その中では巨石を11に分類していた。
そのひとつに『鏡岩』があり、
愛知県内7カ所と県外3カ所の鏡岩が取り上げられていた。
個々の紹介に入る前に1頁の解説があり、
そこの末尾に、
“(「鏡岩」平成12年林宏氏著参照)”との記載がみられた。

 今回は、
その林宏氏の本との出会いについての記事であるが、
その前に、まず触れさせていただきたいことがある。

 数日前、ある検索エンジンで、
私のこのブログのタイトル「石と在る」を検索した時、
その検索結果に『季ノ組』という変わった名称が出てきたので、
早速、そのホームページを開いたところ、
“面白いブログが見つかったので、
年明けにでも読んでみたい”
とのコメントをつけて、
私の「石と在る」を紹介してくれていた。
大変に光栄なことで、この場で、お礼を申し上げたい。

 驚いたのは、
『季ノ組』の“巨石”関係情報の膨大な量であった。
毎日のように、
新聞等に載っている記事を採録してくれているだけでなく、
リンクが非常に充実している。
一挙に、
私の
巨石・聖石領域の世界の視野が広がったように思った。
磐座学会が出来ていることも、初めて知った。
『愛知発 巨石信仰』の中で、ちょっとだけふれた
「古代祭祀跡 吉備の磐座(原稿作成平成元年、印刷発行平成四年)」
の著者佐藤光範氏が、
その学会で、発表されていることもわかった。
同じく『愛知発 巨石信仰』に記した、
『祭祀が語る古代吉備』の著者である
古代祭祀研究家の薬師寺慎一氏が関係する
ホームページ(古代祭祀研究会)もあることが分かってうれしかった。
 圧巻は、「求道者」、「泰山の古代遺跡探訪記」、
「Web魁(さきがけ)」 、
「LITHOS GRAPHICS」、
そして音楽家吉田達哉氏の「世界の石」等の
ホームページである。
それぞれ、そのホームページの世界に入って行くと、
興味深い内容に、なかなか抜け出せなくなってしまう。
私は、
いまだに普通の電話回線によってインターネットをしているので、
限られた時間しか、とどまっておれないので困ることとなる。

  『季ノ組』関係者、
「求道者」作者、吉田達哉氏、磐座学会関係者等々、
石や岩に惹かれる心を持ってしまった人々は、
後で紹介する林宏氏も同様であろうが、
私も、
石や岩に惹かれだした理由を、
明快には自身に説明できないまま、
そこから離れなくなり、
奥へ奥へと深く関わりを持たざるをえなくなったとの
想いがあるのではなかろうか。

 私自身については、いつか、
その根本的理由の解明をしていかねばと思っている。

 シュルレアリスムの旗手で
詩人・小説家のアンドレ・ブルトンに
「石の言語(巖谷国士訳 書物の王国6 『鉱物』 
国書刊行会発行所収)」という作品がある。
その中の一節が恐いくらいに、
今の私が浸りつつ在る状況を
説明してくれているようにも思えるので、
少し長くなるが引用しておきたい。
 
 「石は、
成人に達した人間の大多数をすこしも立ちどまらせずに、
そのまま通りすぎさせてしまうわけだが、
それでも万が一ひきとめられるような人がいると、
もう、とらえられて放さなくなるのが常である。
石たちは、たがいに押しひしめきあっているすべての場所で、
そうした人々を魅きつけ、
いわば彼らを、
とりみだした占星術師のようなものにしてしまうことをよろこぶ」
 そして、その作品の最後で、
石は生きていて言葉を持っているかのごとく述べている。
 「石たちは、
とくに硬い石たちは、
まともに耳をかたむけようとする人々に対して、
語りかけつづける。
聴く者ひとりひとりの尺度に応じて、
石たちは言語を持つ。
聴く者の知っていることを通して、
石たちは、聴く者の知りたがっていることを教えてくれる。
石たちのなかには、
呼びあっているように見えるものもある。
ふと近づいてみると、
石どうしが語りあっているさまに出あうこともある」
 
 石が生きているという感覚は、
文明の進んだほとんどの現代人にとっては
無縁となってしまったが、
時代を遡れば、
あらゆる民族が、
石に命があることを信じることなくして
生活することはできなかった。
 石は人間の進化の過程において、
いくたびも根源的で決定的な役割を果たしてきており、
また、今日にいたるまで、
人間社会のあらゆる場面において、
必要不可欠な要素となってきたからである。
石との切っても切れない関係が、
感謝、親しみ、驚異、畏敬、畏怖等となり、
人と同類あるいはそれ以上の命ある存在として、
無数の生きてる石の説話を
残すことにつながっているのではないだろうか。

   さて、林宏氏の「鏡岩紀行」であるが、
その存在を知ったのは、
2000年12月13日付け
「日本経済新聞」の最終頁にある「文化」欄であった。
この「文化」欄は、
私は、いつも愛読しているのである。
 林宏氏同様、
長年にわたって、ひとつのテーマで取り組んできた、
地道な、あまり目立たない文化的業績を
本人に語らせるスタイルをとっている。

   「古代の神秘映す『鏡岩』
~津々浦々訪ね歩き、調査結果を自費出版~」 という見出しの
林宏氏自身の手に成る
記事の書き出しの一部を以下に引用する。
 
 「我が国には、
古くから
全国に『鏡岩』または『鏡石』と呼ばれる岩石が
各地に残っている。
文字通り人や物の姿を鏡のように
よく映す岩のことで、
明治・大正時代ごろまでは歌に詠まれたり、
名所になったり、
信仰や伝承の対象として語り継がれてきたが、
現在では知る人は少ない。
私は五年前から
各地の鏡石・鏡岩五十八カ所を訪ね、
それらにかかわる伝承を調べてきた。
今回調査結果をまとめ、自費出版した」
 記事の最後に名前とともに、
愛知淑徳高校教諭であることが記されてあったので、
早速、高校の所在地を調べ、
お手紙をして、本を入手した。
 副題に
「地震が残した断層面の神秘な輝き」 とあり、
2000年8月22日発行の
中日新聞社出版開発局制作で、
四百二十頁の、
江戸時代の鏡岩の入った名所図会や
現在の写真等が豊富に入った見事な本である。
また、名所図会の絵のある乳白色の表紙カバーが実に美しい。
惚れ惚れとするような書物である。
 
  『考察編』、『探訪編』、『付録』から構成されている。
  『探訪編』に収められている鏡岩は、
京都府5カ所、滋賀県2カ所、和歌山県5カ所、
奈良県2カ所、兵庫県1カ所、三重県5カ所、
岐阜県6カ所、愛知県13カ所、静岡県4カ所、
長野県3カ所、福井県3カ所、埼玉県1カ所、
茨城県1カ所、千葉県1カ所、徳島県3カ所、
岡山県1カ所、福岡県1カ所である。
   
  『考察編』に、
鏡岩は、すでに風土記に記載があると書き、
木内石亭の「雲根志」には
5カ所紹介されているとし、
今日まで鏡のような輝きを保っているものは、
殆ど残ってないと述べている。
輝きが持続するのは500年程度かと推測している。
以下、この編の見出しだけ示しておきたい。
    ○「鏡石」「鏡岩」 は、本当に鏡になる岩か?
    ○「鏡石」「鏡岩」 は、いつ頃から知られていたのか?
    ○中国にも「鏡石」はあった
    ○出現時期が明らかな「鏡石」「鏡岩」
    ○「鏡石」「鏡岩」 にかかわる様々な伝承
      ・人や物の姿を映したという伝承
      ・輝きが強すぎて漁民を困らせたという伝承など
      ・人の心の善悪を映し出すという伝承など
    ○かつては「鏡石」「鏡岩」を磨いた時代があった
    ○「鏡石」「鏡岩」はかつて信仰の石だった
    ○鏡肌の人為的消滅伝承の謎と「鏡石」「鏡岩」の破壊
    ○「鏡石」「鏡岩」が多く見られる場所とは?
    ○特殊な「鏡石」「鏡岩」
         ・池中の「鏡石」
         ・「屈み石」か「鏡石」か
         ・鏡肌を持たない「鏡石」「鏡岩」
         ・不思議な伝承を持つ「鸚鵡石」も鏡肌の岩
     ○「鏡岩」という名前を持つ男たち
    ○鏡肌の寿命
    ○まとめに代えて

  『考察編』の、次のような最後の一節が強く心に残る。
 「効率主義に基づく競争原理や時間の制約に囚われて
毎日アクセク生きている私たちにとって、
『鏡石』や『鏡岩』は
そうした現代人が忘れ去ろうとしている自然界が
私たちに与える驚きや安らぎの大切さに気付かせてくれる
一種の『清涼剤』として、
古代から送られた美しくもはかない
『贈り物』のような気がしてならない」

 大いに共感出来る考えである。私も、石の随筆シリーズで、
何度か、似たような感懐を述べている。

 ところで、私は、未だ鏡岩はひとつも見たことがない。
まずは、岡山県の1カ所「備前市八木山にある鏡石神社の鏡石」に
行ってみなければならない。

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