正木山の磐座
正木山の磐座
~総社のイワクラ(磐座)2~
本年1月2日、天気は晴れ、昼から正木山(381メートル)に登った。昨年末、偶然に知ることとなった金子(かなご)部落からの登山コースにした。
正木山は、わが家の二階や毎日の通勤時、総社駅のプラットホームから自然と目に入ってくる。私の心の中では、最近,“神体山”としての重みが増してきている。
マイカーを持たない身なので、自転車で、総社大橋を渡って、秦方面に向かい、山崎部落の細い坂道を上がって、金子大池の土手に出た。そこは、急に視界が開けて別天地にでも来たようであった。池の周辺は懐かしい古き良き農村風景がしっかり残っていた。穏やかな水面に、水鳥が多数戯れている金子大池の背後に、美しい姿の正木山がゆったりと聳え立って見える。これから、その頂に行くのだと思うと、心が弾んだ。
坂を上がったばかりの土手の一角には、『式内 麻佐岐神社遙拝』と刻んだ年代を感じさせる大きな石碑がある。また、並んだ位置に金毘羅宮の堂々とした石塔がある。振り返ると、福山や伊与部山が一望できるのも嬉しい。
金子部落内を抜け、登山口に自転車を置いて歩き出した。道は幅2メートル近くあり、山道としては広く、舗装はされてはいないが、よく管理されている印象であった。しばらく登った右手の谷に墓地があり、そこに、まだ新しい祠があった。降りて近づいてみると『大山神社』の名があった。高さ1メートルほどの三角形の石が祀られていた。辺津の宮ともみなせないことはない。また近くに神が降臨する木(おがたまのき)が植えられていた。
道に帰って、1時間近く登った所に、『中津宮(大祓谷)』と記した小さな立て板がある。そこは、ちょうどウエルサンピア岡山(厚生年金休暇センター)方面や福谷方面からの道と交わった場所である。特に,岩や建物跡は見られない。昨年11月末に、ウエルサンピア岡山方面から頂上を目指した時には、笹に覆われていて気づかず、素通りして金子部落に降りてしまったのだ。今回は、きれいに笹が刈り取られており、頂へと、ここから急に向きを変えて急斜面となるごく細い山道がはっきりと見て取れた。そこから約30分以上,曲がりくねった歩きにくい道を上がっていった。わずかばかりであったが、道の傍らには残雪があちこちにあった。
頂上に近づいて来た事を思わせるように、次第に道幅も広がり、一種の神域の境界ともいえる数十センチメートル大の石が両脇に置かれているところがあった。しばらくすると、相当に乱れて来てはいるが石畳状とみなしてもよいような道が百メートルほど続いて、石の鳥居が現れた。その先は平地となり、石垣のうえに小さな拝殿が立っていた。本殿は存在しない。目的の磐座は、拝殿に隠れて見えない。
御神体である古さびた磐座は、拝殿真裏の石垣の上に造られた玉垣の中で、注連縄を巻かれて鎮座していた。それほど巨大なものではなく、人の背丈ほどである。祭壇状の岩が備わっている。玉垣の中は、いかにも、ずっと昔から祭祀が行われてきた様子を思わせるたたずまいである。樹木が幾本かあり、土瓶が地面に埋められていたり、小さな石碑もあったりする。
次第に、厳かな雰囲気を感じてくるようになった。ここは、まぎれもなく聖地の一つなのだ。延喜式(延長5年、927年)の神名帳の巻に載っている『麻佐岐神社』である。
備中国の式内社18座のひとつであり、明治40年5月22日に旧秦村の村社となった。ここにも“おがたまのき”が植えられていた。拝殿に説明板があり、祭神は大国主神(岡山県神社誌では大國魂神)で、祭日は5月11日(岡山県神社誌には例祭7月12日)とあった。
鳥居の方を振り返ると、総社平野が一望出来、福山とそれに連なる山々も鮮やかに眺められる。石畳の道、鳥居、拝殿と連なる線は東向きである。太陽が昇ってくる方向に向いている。古代の人々は、ここで、どのような祈りを捧げたことであろうか。
拝殿に、今年になって新調された記帳用のノートがつり下がっていた。記帳するため開いてみると私の順番は31番目であった。(なお、3月2日に参拝した時は、73番目であった)記帳しているのは皆、秦地区の人で、10数家族が元日と2日の午前中に参拝に来ていたことになる。
しばらくしてると、数人のある一家族が来られた。大野の人で、糸島玉夫(83歳)さんといわれる一家であった。大野の方からは、車で頂上まで来ることが出来るとのことである。玉夫さんから拝殿に置いてあった一升瓶に入った御神酒を勧められた。また、正木山が秦地区の所有になっていることや、数十年前に拝殿の屋根を藁から葺き替えた話、年末の参拝道の手入れ、頂から南面のすぐ下に別の磐座らしきものがあることなど教えてもらった。
ところで、昨年12月8日(土)、予め約束をして宮司の小橋学氏のお宅を訪問した。
ウエルサンピア岡山のプールの奥にご自宅があるとのことなので出かけた。まず目に入って来たのが、『古代吉備乃国発祥乃地』と書いた数メートルはあろうかという手作りらしい大きな塔であり、驚かされた。その周辺は歌碑や磐座等が配置された広い庭となっていた。あたり一面に聖域の雰囲気がただよっていた。しかし、ご自宅は洋風のモダンな建物であった。
先代の宮司小橋光一氏は、学氏の父親にあたられ、十二代目であったとのことであるが、数年前に亡くなられていた。秦地区及び周辺の多くの神社の宮司を勤められて、それぞれの整備と祭祀行事等に尽力されて、地元住民から大変尊敬されていた方のようである。また、磐座を熱心に研究されておられたようである。生前にお会いできなかったのが残念である。
光一氏が蒐集された磐座等の史料の展示室があるとのことで、拝見させていただいた。学氏は、後を継いでからまだ日が浅く、いまだ、この史料の整理に当たっておられないとのことで、内容の説明は十分にはしかねるとのことだった。ただ、頂上の磐座を取り囲んだストーンサークル的な石の配列が確認されている図面等を拝見した。また、いつ頃のものなのか、“まさきやま”についての古い和歌集も見せて頂いたが、草書体のため、判読できないのが残念であった。
史料展示室には、書籍も幾冊かあったが、その一つに、前回紹介させて頂いた佐藤光範氏の磐座の本もあった。二人の交流があったことが推測できる。
少し長くなるが、その本の中から、『秦』と『正木山』と『磐座』に関連した部分を引用させていただく。
「『マサキ』とは何か?○○キの『キ』は祭祀の場所を示す『キ』です。『マサ』は麓の秦部落を意味しています。京都に映画村で有名な太秦があります。ウズマサと読みます。曾て秦氏の居住地としていた所です。秦の事を『マサ』ともいっていた証拠がここに残っています。(まだその意味は不明です)ハタ族(マサ族)は道教を信仰していたから、道教の秦の始皇帝に因んで『秦』の字を使ったのです。京都の秦族も伏見の磐座を祭祀していました。ここ総社でも正木山の東の登山口にいた秦族は、裏山の『磐座』を祭祀していたのです。むしろここの山に立派な『磐座』があったから、麓に秦族が居を構えたというのが正解でしょう。
更に面白いことには、ここ総社の秦族は高梁川側で白鳳時代の『秦廃寺』を持ち、岡山市の旭川側の幡多族は操山西端に正木山を持ち川沿いに、白鳳時代の『幡多廃寺』を持っている事です。そして、このハタ氏族が、二グループの真中の距離にある『磐座』岡山市高松の龍王山に、出身地の京都伏見の自分達の守神『稲荷様』を招聘している事です」
次回は、一回目に、写真で見て頂いている『石畳神社の磐座』を取り上げたい。これも、秦族が関わるものである。『秦氏』についての、詳しい解説とともに、秦地区の各部落にある氏神や、秦廃寺、古墳、三角縁神獣鏡、銅の鉱山等についても、関連させながら触れてみたい。
最後に、このたび正木山に行くつど、心が大変に痛んだことがあったことをお伝えしておきたい。それは、とんでもないほどの松枯れの状況である。松枯れでは、里の私どもの家の近辺においても、近年、大切な庭の松を枯らして残念がっておられる方が多い。
しかし、正木山の松枯れの、あまりの惨状に声も出なかった。立木のまま、切り倒されたまま、また自然に倒れた状態の、赤くなってしまった沢山の松が放置されている姿か痛々しい。私たち人間の健康な生活の維持にとって、身近かな山々が、切っても切れない大切な関係をもっているのに、どちらかといえば顧みられなくなっていることへの悲痛な叫びとも思いたい。みんな、もっと山に入って、自然と一体になった人の本来の生活といったものを考えてみようではありませんか。磐座へ関心を寄せることが、その、ひとつの入り口になるのではないだろうか。
終わり
平成20年2月18日脱稿
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