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2006年1月27日 (金)

『健康批判』に対して

 先に、亀井勝一郎の
健康に関する次のようなアフォリズムを載せ、
これらが、私の心をチクチクと刺し続ける、
何とかならないものだろうかと書いた。
 今回は、このことに対する、
なんらかの解決への糸口を見つけだそうとする、
ささやかな試みである。

 「頭脳がからっぽになるほど健康に熱心な人がいる」

 「歩くことは健康の基本である。
    しかし歩いてばかりいるのは精神の浮浪児である」

 「(前略)くよくよしないこと。心配ごとを持たないこと。
    食物をよくかむこと。酒も煙草も用いないこと等々。
      長命の秘訣のなかには、何かしら人間性への侮蔑がある」
 
 これらから、うかがえる事は、
健康は人間にとって、
万人に最上の価値と認めてもらえるようなものではないことを、
あからさまに主張しているように思われる。
         
 やや異なった観点からではあるが、
健康の至上価値説に対する批判の書として、
「東京大学公開講座25“健康と生活”
 東京大学出版会 1977年10月」所収の、
今道友信文学部教授による、
45ページにも及ぶ「健康への懐疑〜知性の使命〜」
という興味深い論文がある。
 すこしばかり長くなるが、
まずは、この内容を紹介するところから、
すすめていきたい。
 【なお、“健康と生活”は、以下の10編の論文から成っている。
    「健康法あれこれ」、
    「食物と健康」、
    「スポーツと健康」、
    「くすりと健康」、
    「結婚生活と健康」、
    「心の健康と病気」、
    「健康への懐疑」、
    「仕事と健康」、
    「都市生活と健康」、
    「医療の経済学」】

 それは、次のような文で始まっている。
 「(前略)健康こそが疑いもなく人間にとって
一番大事な価値であるかのように言われることもあろう。
しかし、ほんとうにそうなのかどうかということを、
われわれはまず考えてみなければならない」
 そして、戦時における兵役を免れるための仮病や、
愛を獲得するための自傷行為、
スタイル維持のための過剰なダイエット等の例を挙げて、
「健康よりも何か大事なものがあるからこそ、
健康でないように装ってみたり、
実際に健康でなくなりたいと思ったりするのである。
 それゆえ、
健康は人間にとってかけがえのない第一級の価値なのではない」
と論を展開する。
 
 続けて、「健康が第一級の価値ではないということ、
これはもう一歩考えを進めてみると、
生物学の常識なのである」とまで言い、
昆虫が示す仮死状態や、人がおちいる失神などを例に出して、
「生物、すなわち
生きるということをその本質状態とする存在者にとっては、
健康に生きてゆくことが
生きることの理想的な姿であると思うが、
それなのになぜ、
その健康がそこなわれるような状態が、
意識的にであれ、無意識的であれ、
望まれることがあるのか。
 それは健康ではない状態によって、
ある貴重なものを守ろうとするからである。
 健康でない状態によって、
何を守ろうとするのか。
仮死の状態になってまで守ろうとするものは、
前述したように二つあると思う。
非常な肉体的苦痛や限度を超えた
精神的苦痛を免れようとすることと、
生命を守ろうとすることが、
失神や仮死の生物的機構なのである」と述べている。

 さらに、
「人は生命をさえ献げなくてはならない時があるとすれば、
いわんや、健康に於いてをやである。
あまり健康健康とそればかり大切にしていると、
人間は人類が守ってゆかなければならない
自由も、平和も、あるいは命までも
捨ててしまわなければならなくなってしまう。
 (中略)文化の中には、少なくとも
自分自身の健康を犠牲にするくらいの
覚悟を以て事に当らなければ成立する筈もなかったものが多々ある」と、
考えを敷衍していく。
 その結果、
「命を捨ててでもとか、
健康を犠牲にしてでも
守り通さなければならないものがあるということは、
実際にそうだというふうに考えて、
まずそのことは
自分の考察のテーマの中に入れなければならないと同時に、
軽々しく命を捨てようと考えてはならない。
 それら二つのものは
精神の自己実現のための場なのである。
また、自分の健康を犠牲にしても守り通したり、
達成したりしなければならないものは確かにあるが、
それは良識で考えなければならないということも
意識すべきである」という考えに到達し、
ここで、良識とか思慮という問題を浮び上がらせている。
 そこから導かれるのが、
「文化を創造したり仕事を完成したり、
あるいは平和とか自由を守り通すために、
健康や命を犠牲にすることが必要になってくることがありはするが、
それをどういうときに、
どの程度犠牲にしなければならないかを
正当に判定し得るだけの
健全な精神について省察を加えるべき段階に至った」ということであり、
「時により場合により、
われわれが犠牲にしてもよいような健康があるとすれば、
それは身体の方の健康であって、
もし逆に心の健康を捨てるということがあれば、
それは人間ではなくなることであると言わねばならない」
と結論づけている。

 次の段階の考察の対象は
『人生は不健康への傾斜であるという説』を発端とした、
『健康と幸福』の問題についてである。
 
 「人間が生きるということは
やがては健康な状態を失うところに進んでゆくことなのである。
したがって、前に明らかにしたように、
人間にとって、健康が第一の価値でなかったことは、
ありがたいことだと言わなければならない。
 どうしてかというと、
もしも健康が人生にとってほんとうに第一の価値だとするならば、
人間は生きることを介して
いずれ第一の価値から徐々に離れてゆくことになるからであり、
そして、それは別の言葉で言えば、
不幸になるということになる。
そうであるとすると、
幸福とは
元気な人の青春にしかないものとなってしまうではないか」
 
 「健康も大事であるが、
われわれが人並みに求めているものは
幸福すなわち『しあわせ』ではなかろうか、
という問題である。
幸福の条件として、われわれは凡人なるがゆえに、
健康も数えたい。
健康を喪うことは、それとして見る限り、
確かに幸福ではないのであるから、
幸福の条件のひとつとしして、
健康がほしいと思う。
 しかし、健康を失っても、
場合によっては健康があったときよりもなお幸福になる
ことができるのでなくては人間の生ではない」
 
 以上から、
『人間にふさわしく、
健康なき幸福の可能性をもとめなくてはならない』とし、
さらに、幸福とは何かということについて、
ポーランドのワルシャワ大学の
ヴラデイスラウ・タタールキェヴィッツ教授の
幸福の四つの条件を掲げて、それぞれ、
健康と関係を持たせながら論究が続くが、ここでは省略する。
 結論的に、
ハワイのモロカイ島において
聖ダミアンがハンセン氏病患者に対して行った行動等をあげて、
 「健康は人間がより幸福になるための
人生の闘いの最も平凡な条件の一つといっていい。
 しかし、それは必ずしも絶対に必要な条件ではない。
不健康であっても
幸福になるように闘うことができると考えておかなければならない。
たとい、絶対に健康になることができなくても、
人は幸福にはなれるのである」という。

 最後に、技術連関社会である現代社会と健康について触れ
「われわれはその技術連関の中で、
多くの仕事を機械の機能に換算して
操作する工夫や研究を続けてきたので、
次第次第に人の命もそのような機能として
量化を介して機械として考えられるようになってくる。
 したがって健康も、病気も、
すべて機能と関係づけて理解され始める。
すなわち、人間がある種の働きに適している状態が
健康であると規定されてくる」と警告し、
「物象的変化の形式で、
いかほどたくみに機能が保たれることがあっても、
それだけが人間ではない、
ということを考えておかなければならない。
 健康を
もしも物象的な機能が
十全に行われていることであると言ってしまうならば、
その場合の健康は
心の問題を省いてしまっていると言わなければならない。
人間は人間であるかぎり、
物象を越えてゆく精神であることを忘れてはならない」と述べる。

  これらを受けて、今道友信は、
 「人間として生まれたからには、
他者に開かれ、
他者と助け合って向上してゆくところの絆となる
この知性ー人間的愛の可能性の根拠ーを
それぞれに可能な形式と程度で磨き上げ、
自分に許されている高さに健康を高めながら、
その知性で
健康に対して目的を指示しなければならない。
 何のために自分にこの健康が許されているのか、
また、何のために自分はよりよい健康を求めようとするのか、
ひいては何のために自分は生きているのか、
そのことを
知性ー人間の愛の可能性の根拠ーによって正しく反省しなくては、
健康と言っても、
右翼や左翼の政党が
世界の各地で考えているような
国力増進という名のもとでの
世界破壊の道具にさえ堕してしまうのである」と言い、
旧約聖書の中の
「我は健康よりも智慧を愛す〜知恵の書〜」という言葉で結んでいる。

 ところで、今日の、
主として先進諸国における健康政策の大きな潮流を
後押ししているのが、以前にも紹介した
WHOが一九八六年に採択した
「ヘルスプロモーションに関するオタワ憲章
(以下、“オタワ憲章”とする)」である。

 ここにおいて、健康は、
人生の目的ではなく、
毎日の生活の資源として捉えるべきであることが述べられている。
 しかし、だからといって、
このことが健康の価値を落としめているようには思えない。
私には、健康は個人の祈りにも似たような、
日々の平凡ではあるが地道な努力と、
社会の広く大きな組織的努力によってしか、
もたらされないものであるとの思いが強いので、
亀井氏や今道氏のようには、
軽々しく健康の重大性について、
疑問を差し挟めないのである。

 人の生活意識は、
たくさんの層から成り立っているのであり、
当然の事として、
ひとりの人間の精神の中には、
重層的かつ多様な志向があるはずである。
どのように健康熱心な人でも、
日々の生活時間構造からみて、
亀井氏が挙げておられるような、
直接的に健康に関連して費やす
生活意識・行動時間はわずかなものではないだろうか。
 その部分的な健康意識・行動生活によって、
その人の全人格を判断することなどできるはずもない。
亀井氏の健康についての批判意見は
、一方的で、いささか針小棒大な誇張した考えである。
 
 それでは、歩いてばかりの、
また食事作法に厳しい、
無心になることを目標においた修行僧の生活などは、
どのように考えたらよいのだろうか。
 
 また、今道氏の考えについて言えば、
基本的には亀井氏の意見に対する反論と同様であるが、
さらに追加して言えば、
すでに貝原益軒が『養生訓』の中で説いていることではあるが、
平常時の備え(健康)と、
非常時の実行(知性による犠牲的行動、冒険等)
とでもいうべきものの区分で考えれば良いのであって、
あながち健康価値を下げて置かねばならないようにも思えない。
 非常時の実行が正しく行われるためには、
平常時の備えがなければならない。
そのためには、健康は極めて大切な心掛けであらねばならない。
身体と精神の健康を、便宜的に分けることは、
実際には困難であり、
これらは不可分に繋がってくるものである。

 なお、今道氏が、
その評論のなかで使っている
『健康』という言葉の意味している内容について述べておきたい。
 これは、最後の方で取り上げる
「健康病〜健康社会はわれわれを不幸にする〜 (洋泉社新書)」の
上杉正幸氏の使い方にも共通することである。
 
 ここで、以前に紹介した、
本宮輝薫氏が整理した5つの健康観と新たな健康の定義を再掲する。

  (1)健康とは病気のないことであり、
        病気とは健康でないことであるという
              二元論的健康観
  (2)健康とは身体的にも、精神的にも、社会的にも     
        完全に良好な状態であるという
              完全主義的健康観
  (3)病気を健康の欠如ないし低次の健康とし、
        病気からより質の高い健康までを
              一元的・連続的に捉える健康観
  (4)健康から病気、病気から健康への
        プロセスを重視したり、病気や障害といった、
         一人一人与えられた条件の中で
           より良好な状態を目指していくといった
              循環的・個別的健康観
  (5)生命・生活・人生といった
        生き方そのものを自己統御していく
         プロセスとして健康を捉え、
          人間生活全体を包括的に見ていく
              全人的健康観
 
 本宮の新たな健康の定義は、
「単に病気でないことを越えて
より質の高い健康が存在すること、
その際場合によっては
完全な健康に近づくことも可能であること、
また不治の病や先天的な障害を持った人にも
その病苦に応じた健康が可能であること、
さらに生き方そのものが
健康として捉えられること、この4つ」を考慮にいれた、
「ホリスティックな健康とは、
精神、身体、他者、環境からなる自己の全関係性から見て、
一人一人与えられた条件において自ら達成可能な、
より良好なレベルの生の質を得ている状態である」というものである。
 
 しかし、今道氏等、健康懐疑派の多くは、
旧来の一般的に流布している二元論的健康観ないしは、
完全主義的健康観が本質的に抱えている矛盾のみにこだわって、
論を展開しているのである。

 ここで、前記したオタワ憲章は、
約10頁程度のものであるが、
その中で、健康概念について書かれている部分を抜き書きしておく。
 
 まず、「健康は身体的な能力であると同時に、
社会的・個人的資源であることを強調する
積極的な概念なのである」とした上で、
次のように書かれている。
視点がやや異なるが、
本宮氏のホリスティックな健康の定義に、
ある程度類似しているようにも思えるのだが、いかがであろうか。

 「健康のための基本的な条件と資源は、
平和、
住居、
教育、
食物、
収入、
安定した生態系、
生存のための諸資源、
社会的正義と公正である。
健康の改善には、
これらの基本的な前提条件の安定した基盤が必要である」

 「健康は、
社会、
経済、
および個人の発展のための重要な資源であり、
生活の質の重要な要素である。
政治的、
経済的、
社会的、
文化的、
環境的、
行動科学的、
生物学的な諸要因は、すべて健康を促進させ、また阻害しうる」

 「健康は、
人びとのあらゆる生活舞台、
すなわち、学び、働き、遊び、そして愛するところで、
人びとによって創造され生かされている。
健康は、
自分自身や他者のケアによって、
自らの生活環境を決定し管理することによって、
そして社会のすべてのメンバーに
健康の達成を許すような
創造的な状態のなかでの生活を
社会が保障することによって、創造されているのである」

 WHOは、
一九七九年五月の第三十二回総会で、
前年に、
当時まだソ連に属していたアルマアタで開かれた
プライマリヘルスケア国際会議の報告書を受けて、
「二〇〇〇年までにすべての人々を健康に
【ヘルス フォー オール】するための戦略の策定」
を決議した。
 わが国で、昭和五十三年度から始まった
『国民健康づくり運動』は、
この世界的な健康対策の潮流の延長線上から生まれたものである。
 
 そして、平成十二年度からは、
第三次の国民健康づくり運動として、
一次予防重視の
「二十一世紀における国民健康づくり運動(健康日本21)
【以下、“健康日本21”とする】」が始まった。
 
 その背景として、次のようなことが述べられている。
 「我が国の平均寿命は、
生活環境の改善や医学の進歩により、
世界有数の水準に達している。
しかしながら、人口の急速な高齢化とともに、
疾病全体に占めるがん、心臓病、脳卒中、糖尿病等の
生活習慣病の割合は増加しており、
これに伴って、要介護者等の増加も
深刻な社会問題となっている。
 そこで、21世紀の我が国を、
すべての国民が
健やかで心豊かに生活できる活力ある社会とするためには、
従来にも増して、
健康を増進し、
発病を予防する『一次予防』に重点を置いた対策を
強力に推進することにより、
壮年期死亡の減少、
痴呆や寝たきりにならない状態で生活できる期間(健康寿命)の延伸等を
図っていくことが極めて重要となっている」

 この「健康日本21」は、
カナダや米国等における
同様な取り組みが刺激になっているが、
前述した、
先進諸国における新しい公衆衛生運動を後押ししている、
一九八六年にWHOが採択した
「ヘルスプロモーションに関するオタワ憲章
(以下、“オタワ憲章”とする)」が
理論的支柱になっているように見受けられる。
 平成十年度から、
多数の有識者や専門家を動員して検討をすすめ、
公聴会等も開催した後、
平成十二年三月に正式に厚生労働省から通知として出された。
 
 「健康日本21」は、次のような構成となっている。
  第一 趣  旨
  第二 基本的な方向
    1 目  的
    2 期  間
    3 基本方針 
     (1)一次予防の重視
     (2)健康づくり支援のための環境整備
     (3)目標等の設定と評価
     (4)多様な実施主体による連携のとれた
        効果的な運動の推進
  第三 目標等について
    1 性  格
    2 設定の考え方
     (1)栄養・食生活、
     (2)身体活動・運動、     
     (3)休養・こころの健康づくり、
     (4)たばこ、
     (5)アルコール、
     (6)歯の健康、
     (7)糖尿病、
     (8)循環器病、
     (9)がん
  第四 地域等における健康づくり運動の推進について
 
 「趣旨」は、
「健康を実現することは、
元来、個人の健康観に基づき、
一人一人が主体的に取り組む課題であるが、
個人による健康の実現には、
こうした個人の力と併せて、社会全体としても、
個人の主体的な健康づくりを支援していくことが
不可欠である。
 そこで、『健康日本21』では、
健康寿命の延伸等を実現するために、
2010年度を目途とした具体的な目標等を提示すること等により、
健康に関連する全ての関係機関・団体等を始めとして、
国民が一体となった健康づくり運動を
総合的かつ効果的に推進し、
国民各層の自由な意思決定に基づく
健康づくりに関する
意識の向上及び取組みを促そうとするものである」となっている。

 正式通知に先立って、
「健康日本21」の「中間まとめ」の発表があった後で、
読売新聞(一九九九年十一月二十九日)に掲載された
山崎正和氏の
『健康崇拝〜国の後押しは危険〜
(“世紀を読む”朝日新聞社 
二〇〇一年十月一日発行 所収)』という、
激烈な
健康づくり運動批判の論調には驚愕した。
先の今道氏の見解に通じている部分もある。
紹介しておきたい。
 
 次のような書き出しで始まっている。
 「『健康は宝だ。健康のためなら死んでもいい』という冗談がある。
二十世紀も終わりに近づいていて、
いまとくにアメリカを中心に、
世界の先進国で『健康カルト』が荒れ狂っている観がある」
 
 そして、
まず、「健康日本21」を
「一読して誰もが悪い冗談だと思うだろうが、厚生省は大まじめである」、
「これは明らかに権力による国民精神作興の企てである」
と酷評し、批判する。
 続けて、
「(前略)肉体の健全さの質を権力が決め、
結果的に精神の健全さを均質化するのは危険なのである。
 じつをいうと、
厚生省みずから一方ではこの危険を知っていて、
個人の生活は各自の自律的な健康観に従うべきだと認めている。
だがその同じ短い文章のなかで、
同時に生活習慣の国家的な目標を示そうというのは、
いったいどういう論理なのだろうか。
自律的な個人を
国家目標に服従させるのは根本的に矛盾であるが、
どうやら賢明な厚生省はそのこともわかっているらしい。
 そこで役所は悪しき生活習慣を法的に禁止するのではなく、
それに反対する国民『運動』起こし、
みずから努力する良民を『支援』するのだという。
 だがじつをいえば、
『健康日本21』のもっとも薄気味悪いのはこの部分であり、
そこに含まれている思想なのである」、
「良民を『支援』し『運動』起こすとは、
ほかでもなく社会に正体の見えない『空気』を醸しだし、
国民の自己規制と相互監視を促すことにほかならないからである」
等と述べている。
 その上で、
「怪しい空気はすでに広く現実社会にみなぎっていて、
厚生省はただそれに乗って
時流に迎合しているだけだともいえる。
それがあの『健康カルト』であって、
正体のない空気のように世紀末を覆っている新宗教である」といい、
「今、健康ほど人類が一致して支持する価値はほかになく、
健康がここまで人類の情熱を煽った時代もほかになさそうだが、
これはいったい何事なのだろうか」と疑問を投げかけ、
その理由についてさまざまな角度から考察している。

 結末部分は以下の通りである。
 「現代の『健康カルト』はこうして見ると、
この真に多様で個性的な、
ときに異様にさえ見える情熱が
衰弱した結果だと考えることができる。
だが歴史を切り開き、
文明を創造してきたのはいつの世にも、
そのときには異様で
『不健康』な精神であったことはいうまでもあるまい。
この変革の時代に、
人間の情熱が一つの目標によって画一化され、
まして国家によって善導されるのはグロテスクであり、
最大の時代錯誤といわねばならないだろう」
 山崎氏は、
“冒険や挑戦を賛美する風潮が衰え”、
“無償の情熱が薄れ、
それに感動する心も弱くなった”と嘆いているが、
実際には、
従来型の登山や探検に加え、
宇宙や国際貢献やスポーツはじめ様々な分野において、
冒険や挑戦を志す者の数は
格段に増えてきているのではなかろうか。
数が多くなって、
これまでほどの話題にならなくなっただけではなかろうか。
 ただ、無謀な計画と言われないように、
十分な準備がなされるようになってきたのであり、
健康管理もそのうちの重要な一部であるにすぎない。
 また、一般的に、
現代の急速に変化し、
高度かつ複雑さを増す人工的社会で、
さらに過度な情報が行き交う競争・消費社会においては、
生命を守り、
健康づくりに役立つ確かな基本情報を、
公平中立な立場のところが
提供していくことは不可欠になってきている。
 情報の選択、活用は、
全く個人の主体的な判断によるものであり、
なんら強制されるようなものではない。

  健康は、
生き甲斐ないしは人生の目的としての大事をなす、
あるいは非常時に備えた、
平常時の努めとして、
全ての人が基本として
身につけて置く心掛けとしておきたいものである。
 健康づくりの要点は、
本来、極めて簡単なものであり、
時間をそれほど必要とするものでもなく、
ましてや子供の時から習慣化しておきさえすれば、
負担をほとんど感じなくてすむものである。
 過剰な、次から次にと現れる新手の、
根拠の不確かな、
商業主義的な健康情報に踊らされて、
健康を害することを予防していただきたいのである。

 ところで、
山崎氏は、文中、
次のようなことも述べているのである。
 「もし厚生省が自己の政策に確信を抱いているのなら、
国家の責任ある機関として、
法と規制によって断固として悪を根絶すべきであろう。
それを避けるのは、
役所が立法府を説得するだけの根拠を欠いているか、
明確な姿勢を示して国民の反発を買うのを恐れているかの、
どちらかだろう。
どちらにせよ、
これは行政機関にとって無責任な態度であるうえ、
国民の気風を卑しく不健全にする方途だといわねばならない」
 この意見があったためとも思われないが、
「健康日本21」に法的根拠を与えた
「健康増進法」が、平成十五年五月一日から施行となった。
 
 『健康増進法』は、
これまでの「栄養改善法」の内容を取り込んで、
全く新しい健康づくりの基本法的性格を持った法律として
成立したものである。
その構成は次のようになっている。
  第一章 総則(第一条〜第六条)
  第二章 基本方針等(第七条〜第九条)
  第三章 国民健康・栄養調査等(第十条〜第十六条)
  第四章 保健指導等(第十七条〜第十九条)
  第五章 特定給食施設等
   第一節 特定給食施設における栄養管理
       (第二十条〜第二十四条)
   第二節 受動喫煙の防止(第二十五条)
  第六章 特別用途表示及び栄養表示基準
      (第二十六条〜第三十三条)
  第七章 雑則(第三十四条・第三十五条)
  第八章 罰則(第三十六条〜第三十九条)
 
 この健康増進法は、
第二十五条「学校、体育館、病院、劇場、観覧場、
集会場、展示場、事務所、官公庁施設、
飲食店その他多数の者が利用する施設を管理する者は、
これらを利用する者について、
受動喫煙を防止するために必要な措置を
講ずるようつとめなければならない」が
マスコミで大きく取り上げられ、有名になったが、
前記したように「健康日本21」の
法的根拠の部分が核心をなすものではないかと思われる。
 第七条で、
厚生労働大臣から
国民の健康の増進の総合的な推進を図るための
基本方針が示されることとなっており、
第八条で、
地方自治体は、
基本方針を勘案して「健康増進計画」を定めることとなっている。
(基本方針に「健康日本21」の内容が、そのまま取り入れられた)

 予測されていたことではあるが、
先の山崎氏の批判にも通ずる意見が、
平成十五年九月一日の山陽新聞(夕刊)に掲載された。
私は、これまで名前を存じ上げない方だが、
ジャーナリストの粥川準二という名で
コラム「健康を問い直す」に、
「戦前の日本の姿と重なる〜二〇〇〇年からの運動〜」
という見出しの論説が載っているので紹介したい。
 内容は、
「強制された健康(吉川弘文館)」の著者で、
日本近現代史を専攻する富山国際大助教授、
藤野豊氏の考えを、主として伝える形になっている。
 健康増進法の第二条
「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、
生涯にわたって、
自らの健康状態を自覚するとともに、
健康の増進に務めなければならない」を読んで、
藤野氏は次ぎのように言ったという。
 「一九三八年に厚生省(現厚生労働省)ができた時、
初代厚生大臣の木戸幸一が言った
『健康報国』をすぐに連想しましたね」
 そして、粥川氏は、
木戸が同年五月に日比谷公園で開かれた講演会で述べたことを
「強制された健康」から、引用している。
すなわち、
「国民各自が自己の身体は自分だけのものでなく国家のものである。
(略)国家の為に之を鍛練し、之を強化し、
以て国家報国の信念を保持することが肝要であります」
 続けて粥川氏は、
「健康を義務としたファシズム国家は日本だけではない。
ナチスドイツでも、
三九年にナチ党の青少年組織ヒトラー・ユーゲントは
団員に課した『十戒』で、
『健康であることはきみの義務である!
この言葉がきみのすべての行為を支
配しなければならない』と定めている
(H・P・ブロイエル『ナチ・ドイツ清潔な帝国』人文書院)。
戦前の日本は
ナチスの保健政策を模倣して『厚生運動』を展開した」と述べる。
 最後は、藤野氏の以下のような見解を記して終えている。
 「うがった見方をすれば、
社会の高齢化で高騰した医療費の削減だけが目的ではなくて、
有事立法などとの連動があるのではないかと思います。
戦争を前提とした、
国民全体の体力強化が背景にあるのではないでしょうか。
僕の考え過ぎであればいいのですが・・・・・」

 ひとつの意見としては、
成り立つし面白いかもわからないが、
ステレォタイプな、
一定のイデオロギーに立脚した考えのような感じがしてならない。
 この高度で複雑な、
しかも急激に変化して止まない人工的社会において、
皆がこぞって安心と幸せを得ていくためには
国家と地方自治体の役割は欠かすことはできない。
 ましてや、
商業主義が過剰に蔓延している情報過多の消費社会で、
社会保障の安定した福祉社会づくりをすすめていくことは
並み大抵のことではない。
特に、適切に情報選択を行いがたい社会的な弱者に配慮し、
健康被害を被らない様ようにしていく必要がある。
過去の歴史の教訓は大切にしなければならないが、
今や人類は全く新たな段階に到達しつつある。
原点を大切にしながら、
新たな発想で福祉社会づくりをすすめていかなければならない。

 近年、医師で作家の米山公啓氏が
「健康病の治し方(徳間文庫)二〇〇〇年一月」、
「『健康』という病(集英社新書)二〇〇〇年六月」などの本を出したり、
東海教育研究所発行の月刊誌「望星」平成十五年四月号が
「『健康』という時代病」という特集を
したりと、健康論議が盛んである。
 その中で、「望星」四月号にも出ている
香川大学教育学部教授の上杉正幸氏は、
著書「健康不安の社会学〜健康社会のパラドックス〜
 世界思想社 二〇〇〇年七月刊」及び
「健康病〜健康社会はわれわれを不幸にする〜
 洋泉社新書 二〇〇二年十二月刊」の中で、
しきりに過去から現在にいたる国の健康政策が、
ただ健康不安を拡大させるばかりで、
国民をかえって不幸にしていると
強い調子で批判論を展開している。
 医学が進歩して、
より精度のよい健康診査手段が出現したり、
疾病発現の危険因子がより多く明らかになるにつれ、
人びとは、みんなが異常を、
より多く抱え込むようになり不安が増すばかりだという論法である。
 そして、「人間ドックは健康不安再生装置」、
「『健康日本21』とは国民全員を健康にする運動ではなく、
国民全員を不安に陥れ、
その生活をクローン化させ、
半健康人や病人を増やす運動であり、
むしろ『病気日本21』だ」とまで、
批判のトーンを高めている。
  
 しかし、いろいろな調査で、
健康不安がある者は確かに多いものの、
一方、自分は健康だと思っている者の割合も実に高いのである。
上杉氏は、
日本人の知的レベルというか主体性を
余りにも低くみているのではないだろうか。
不安をバネにした、
自分に適した健康努力をそれなりに行っているのである。
国や自治体が提供しているのは、
そのうちのごくごく一部に過ぎないのではないだろうか。
 我が国には、
江戸時代の養生論の流行にはじまり、
明治にはいっての衛生思想の普及、
食養生運動や各種の健康法の盛衰等
絶えることのない健康ブームが続いているように思われる。
 この根底には
『健康文化』といってもよいような領域があるのではなかろうか。
瀧澤利行氏の労作
「健康文化論(大修館書店)一九九八年二月刊」の助けを借りて
『健康文化』の概念を整理し、
さまざまな健康批判を超える手がかりにしていきたいものだ。

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